深紅面目18 「新しくなる」

 2019年のひろしまの夏の日々、猛暑の連続である。

気象に与える人間のしわざによる影響を発生原の人間だけが被るのではない、

地球上のすべての生きものが悲鳴を出しながら直面している。

動物も植物も昆虫も人間もみなが生き延びていくように、私たち人間は慎み深くありたい。

 そんな願いを持ちながらのメッセージです。

参照聖書のことば ルカによる福音書12章22節から28節

 ある時、ペテロたちは祝福を求めてイエスに近づく子どもたちと親たちを叱った。

子どもの出る幕ではない、子どもはここにいる資格なしと。このようなペテロら弟子たちに

イエスは激しく憤る。神の国はこのような者たちのものなのだ。イエスと共に在ることのために

資格、ふさわしい条件というようなものはない。のちの日、ペテロはイエスの十字架刑のあと、

自らのイエスへの裏切りに後悔し自分を責めるなかで、イエスと共に歩んだガリラヤ日々を

さかのぼりつつ、自分はあの時の子どもなのだと分かり、赦しのまなざしを自分に向けている

イエスに出会う。しかし、その後もペテロはユダヤ教選民・律法主義を抜けきれず、無割礼の

異邦人キリスト者と交流しない姿をさらしていく。にもかかわらずペテロは断固として

イエスに赦されており使徒の働きを続ける。

 

 私自身の体験をペテロに重ねる。聖書に親しみ洗礼を受け教会生活を続けながら

しでかした胸痛むしわざ。そのような私は、欠けと弱さと求道の心の入り混じった私への

きっぱりとしたイエスの赦しにいくども気付かされてみなさんの中にいる。

そして赦されている私はいま新しい促しを感じている。

 

 そのいきさつ。私は数年前から石牟礼道子の著作を座右の書として読むようになった。

そして考えた、石牟礼道子に在って私には無いものを。

それは人間のいのちを大自然の(不知火海)なかで生きるすべてのいのちのひとつとする、

人間が大自然の中に生きていることの慎みと謙虚さ、人間のいのちの相対化。

だから石牟礼道子は不知火海に生きているいのちを犯し続ける人間の収奪と所有の強欲と

傲慢に肝(きも)を痛める。長い間、つい先日まで、私には石牟礼道子のたたかいと水俣病の

人々は関心の対象外であった。なぜこんな自分だったのだろう。

 しかし石牟礼に在って私には無いものを知ったとき、イエスがカラスと雑草の花を見てごらんと

言っていたことに眼が開かれる。イエスの神はカラスを養い野の花を美しく装う、

そして人間ひとりひとりの食べること着ること生きることを実現しようとされる。

神のまなざしの中で人間を含めてすべての生あるものは尊いのだ。

一部の人間が、他の人間のいのち・地球上の動物や植物や魚や昆虫のいのちを軽んじ収奪し

犠牲にしてこえ太る現実をイエスは肯定してはいないだろう。

私たちは神が慈愛をもって養われているすべてのいのちを守る者になろうではないか。

 

         2019年8月5日(月)  石谷牧師記

 

 

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