6月の礼拝メッセージ(要約)
「みんなここにおっていいんよ、わたしも一緒にいるんだよ」
ガンジーは自分は遠ざけたいと考えていたことでしょう、七つの人間のすがたを語っています。
原則なき政治/道徳なき商業/労働なき富/人格なき教育/人間性なき科学/良心なき快楽/犠牲なき信仰。
現実には、ガンジーの願いに反して、彼は自分の遠ざけたいものに囲まれながら、自らの内にもこれを認めながら、
七つの人間に抵抗する生活が続いたのだと思います。
自分の願いのようではなく、むしろ拒みたいことに囲まれながら押しつぶされそうになりながら、これに抵抗する
生活をしているのは、あなたもそうではありませんか。
私のことで言えば、どうしてこのようなことが起こるのだろうか、しかもずっと続いて、私の信じている神さまはこの
事態をどう考えておられるのだろうか、関わってはくださらないのかという問いがしばしば生まれます。
「どうして自分の願っているようにならないのか。」
私はイエスの人間を見つめるまなざしに救いと啓発のようなものを感じています。
たとえば「なぜならば父は(神は)、悪人たちの上にも善人たちの上にも彼の太陽を上らせ、義なる者たちの上に
も不義なる者たちの上にも雨を降らせてくださるからである。(マタイ福音書5章45節)」 私は自分のことを善人と
か義なる者とかと思っているわけではもちろんありません、とてもそういう者ではありません、そうではなく、そうだ、
みんなおっていいんだ、四者四様の人間が、私も、一緒におってもいいんだ。
神はどんな人間に対してもお前はおらなくてもいいと言われる方ではない、むしろ、人間はおのが自由を使って
そこに在り続けることが認められている。これがイエスが親しくアッバ(お父ちゃん)と呼びかけた神から示されて
いる神の人間を見つめるまなざし。そしてイエスに実現したまなざし。
「人間はおのが自由を使ってそこに在り続けることが認められている」から、私のような人間もいるし、私の願っ
ていないことをしようとする人たちもいる。
しかし神が願っていることがある。それはお互いが自由を使ってそこに在り続けることを認め合うこと。このことに
立つなら、自分の存在、利益を妨害する者に直面した時にどう応じていくかという、切実な問いとの格闘が始まり
ます。誠実な格闘をしたいと思います。
イエスが苦悩を経て選んだ実践。イエスを殺す自由を行使しようと、剣と棒を持って取り囲んだ集団に対して、
非暴力をもって抵抗し捕えられるを選んだ。
私は、正義や自衛おのが利益という言葉をあやつって、相手にも正義、自衛、おのが利益という理由が
あるにもかかわらず、徒党を組み集団になって武力行使に傾きがちになる人間が、結局は暴力の連鎖に
自ら苦しむという、繰り返されるあやまちに囲まれながら、
あなたは、みんなここにおっていいんだ、それを実現させる歩みを続けてほしい、との促しを新たに聞くことです。
私たちはいま、地球上のすべての人間みんなここにおっていいんだ、の風が満ち満ちるまでの途上なので
しょう、が、この風はすでに世界に吹き渡っています、
この風に生かされこの風を喜び、この風を運んでいきましょう。
(2014年7月4日 石谷牧師記)