お知らせ

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2024年夏 礼拝説教要旨

<2024年夏、礼拝説教要旨>

「幸いだ、平和を造り出す者たち、その彼らこそ、神の子と呼ばれるであろうから。マタイ福音書5章9節」ということばがあります。私たちが作れる平和にはどのようなものがあるでしょうか。平和とは、戦争状態の中で生活をしてはいないことを含めて、私たちみなが生きていることを喜びつつ存在できていることです。

[自分と隣人を肯定できるという平和]

私は、先ずはなんといっても、イエスとイエスの福音によって、生きていくことの安心と喜びを得ていると思います。欠けあり足らざるあり誤りある私が、無条件の赦しと招きという底抜けのインマヌエルを今日も明日も享受できる、そして他の人間も同様・同質、私の平和の源泉、屋台骨です。

さらには、ありがたいことに、平和は隣人からも社会からも与えられている・備えられているものであり、同時に私も隣人と共に作り出していけるものです。私は自分が作れる平和を次のように二つに分けて作ろうとしています。

[私が毎日作ることのできる平和]

・先ずは、イエスに倣って祈ることです。ある方のことを思い起しそのすこやかに暮らしていることを願います。私の周りで、社会と世界の各地で生存していくことに困難を抱えている人たちを思い起こします、そして自分にできることを探し試みます。

・次に、マタイ福音書25章35、36節にあるような、隣人への行動です。助け、なぐさめ、励ましを必要としている方のところへ身を運び、言葉を届けます。直接その方のところに行けなくても、祈ります。祈りは届けられることでしょう。

・家族、そして教会の仲間たちと友人との間に築くことのできている、有難く、得難く、心から感謝している関係を大切にしていきます。ねぎらい、励ましなぐさめ、感謝し、共に労苦する行動を今日も共にしていきます。加えて教会の集いをはじめとして、みなが自由に語らい楽しみ、生きることの喜怒哀楽を分かち合える場を、みなさんと協力して作り続けることも平和作りです。

 

 世界各地から、日本社会の中から、人間の暴力によって武力によって言葉の暴力によって、命と人権・尊厳を奪われている人たちの叫びの声が届きます。核兵器を使うぞという脅しもあります。私は落胆します、胸が痛みます。しかし、それで何もできなくなるわけではありません。

[私が次世代につなげていく平和作りー命・人権・尊厳こそ宝を実現させるー]

・私の場合は、たとえば次のことです。1945年8月から、79年たっても核兵器は廃絶されていません。2021年に50ケ国によって批准されて発効している核兵器禁止条約の、2024年1月現在の署名国は93ケ国、批准国は70ケ国。この数に励まされつつも、なお核兵器廃絶の道険しです。これほどに、核兵器を保有している国とわが国日本を含めて核の傘に入っている国にとって、核兵器を廃絶することは容易でないのです。この現実を見続けつつ、私は被爆者の被爆体験とその願い・祈りを、被爆体験伝承者として語り続けます。

・さらに私は、太平洋戦争とはどういう戦争であったかを学び知り、繰り返してならないことについて深めながら生活をしていくことを始めました。まだまだ緒に就いたばかりなのですが、70歳を目前にするまで生きてきて、自分の見聞と体験から、明治から1945年までの、とりわけ太平洋戦争を省みることを、現在(いま)・ここで始めそして続けながら深めながら、周りの人へ広げながら、生活していくことが、戦争の起こることを未然に防ぎ、ちからの行使・暴力がまかりとおることのない日本社会を作っていくことに大きく繋がっていくと考えるようになったからです。私はこの生き方も次世代につなげたいと考えます。先ずは私から始めます。

・マタイ福音書5章44節に、「しかし、この私はあなたたちに言う、あなたたちの敵を愛せ、そしてあなたたちを迫害する者らのために祈れ。それは、あなたたちが、天におられるあなたたちの父の子らと成るためだ。なぜならば父は、悪人たちの上にも善人たちの上にも彼の太陽を上らせ、義なる者たちの上にも不義なる者たちの上にも雨を降らせて下さるからだ。」とあります。

隣人を、実のところは自分の利益と都合にとってであるにも関わらず、あたかも普遍的に、悪人、善人、義人、不義なる者と差別、類別、言葉でおとしめるヘイトスピーチをしてしまうこころねを持つ私です。しかし、この世界に日本社会に、敵という人間はいないのだ、無関心になってもよいという人間はいないのだ、そうなるのなら痛みを覚える、私たち人間はみんな隣人である、というスピリットになんとか立ち返っていきたいと願っています。このスピリットを次世代につないでいくこと、これも次世代につなぐ私の平和作りです。

[心身のすこやかさと経済的見通しを保持する]

だからこそ、今述べた二つの平和作りを実現していくことのできる私であるように、私は心身のすこやかさと体調を維持すること、加えて安心できる経済基盤を持って暮らすに努めます。

 

この文章を読んでくださるみなさんが、ご自分の平和作りを、[私が毎日作ることのできる平和]と[私が次世代につなげていく平和作り]に分けられるのならば、どんなことになるでしょうか。各人の平和作りを、ひとつのテーブルの上に出し合ってみると楽しいでしょうね、心強い気持ちになるでしょうね、ぜひ一度このテーブルを作ってみましょう。

                                           以上

 

 

レモンのつぼみを見つけました

 教会の菜園に2020年に植樹したレモンの木、昨年は実までにはなりませんでしたが数輪の花が咲き、今年はすでにたくさんのつぼみをつけています。1個でもいいから実になるといいなです。
 つぼみは伝えているのかもしれません。植樹からの4年間で、眼には見えない根っこが菜園の土になじんで、少々のひでりでは枯れないくらいに根を張りめぐらしたことを。眼に見えるものが眼には見えないことを伝える。
 私の前にいるあなたの語る言葉は、あなたが現在(いま)どんな暮らしぶりにいるかを伝えているのでしょうか。私の前にいるあなたの沈黙は、あなたが現在(いま)どんな暮らしぶりにいるかを伝えているのでしょうか。そういえば、赤ちゃんが言葉を話すようになって、その言葉とふるまいの背景には、赤ちゃんがどんな人に出会いどんな体験を重ねてきたかを知ることがありました。
 今度あなたの言葉を聞く時は、あなたのうしろにあるものを少しは想像できる私でありたい。レモンのつぼみから思ったことです。
        DSC_0410-crop

6月の説教準備ノートから

 お読みくださるみなさんへ

 私の2013年1月から6月までの間のオンライン主日礼拝説教の題目と聖書箇所は

次のようでした。

●2023年1月説教

「おいしいたまご焼きの作り方を分かち合いましょう」第一コリント2章2節

●2月説教

「この圧倒的なできごとによってコリント人に、私たちに新しい成長はなるか」

第一コリント1章1節から12節

●3月説教

「晩年のパウロから届いたたより(手紙)―自分の晩年期をどう歩むか―」

第一コリント1章23節から24節、2章1節から3節 3章1節から9節

●4月イースター記念礼拝説教

「いま生きているナザレのイエスはどこにいるのでしょうか」

第一コリント15章3節から8節

●5月ペンテコステ聖霊降臨記念礼拝説教

「底抜けのインマヌエルのうちに在る、土の器の教会、土の器の私たち」

ガラテヤ書5章1節から15節6章11節から18節

●6月説教

「蒔く種と、その種を蒔く人、その種を蒔く集いは、ひとつ一体で

ありたい」マルコ福音書 a3章31節から4章9節、b4章13節から20節

≪読んでくださるみなさんの何かの参考になることを願って、

この6月説教準備ノートの中から書き出してみます。≫

 私たちは、どうもbの聖書箇所の方に注目し過ぎて引きずられてしまい、

自分は種の蒔かれた道端なのではないか、石地なのではないか、茨の地では

ないのかとばかり考えてしまって、自分の内側で育っている実りを丁寧に見つめて

感謝し、さらに豊かに実を結ぼうと明日に向かっていく、ようにはなってない傾向が

あるのではないかと感じています。私たちは、aでイエスが語られている、

蒔かれた種は必ず実っていくという、イエスの晴れ晴れとした喜び確信と希望の

呼び掛けを聞き逃している、ということではないでしょうか。

 

 私石谷において、イエスの蒔く種―言葉と振舞いとの出会い―が、どのようなことを産み出し、

どのように育っているかについての証しとして、私の最近の体験を分かち合わせてください。

≪私の内で実っているイエスの蒔く種≫

 私は5月に「丘の上の古本屋(イタリア映画2022年)」という映画を観ました。

主人公の古本屋店主が、アフリカからの移民少年との交流の中で、数々の本たとえば

『カリバー旅行記』『星の王子さま』などを無料で貸し出し、読書感想を分かち合うことを続け、

そして自分の死期を予感した店主は少年に『世界人権宣言(1948年国連総会)』を

プレゼント。この本が少年への遺言のような形見分けになるというのがエンディングの映画でした。

 映画を見終えて、私の心に響いてくるものがありました。実は私は『世界人権宣言』を

読んだことがなかったのです。そして『世界人権宣言』を読むことで、店主の少年に対することばと

ふるまいの背景、少年を励まして前途にエールを贈る姿がもっと分かるのではないか、

との直感が生まれ、そしてすぐにパソコン検索によって国連広報機関から

『世界人権宣言(1948年国連総会)』をプリントアウト。引き付けられるようにして読み、

今も机上に置いております。現在の日本と世界の終らないあれやこれやによって、

めげる気持ちは絶えないのですが、だからこそ『世界人権宣言』が目指していることを実現させて、

これからの子どもたちが『世界人権宣言』を享受するために自分のできる行動を続けていこうと

思ったことでした。

 前文と30条ある中から第1条紹介します。

第1条       すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、生まれながらにして尊厳と

権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神を

もって行動しなければならない。

 第二次世界大戦のあと、痛恨の反省から生まれたと言われる宣言、すごいことが願われています。

地球上のすべての人間が前文と全30条を享受できるようにしたいです。

 さて、なぜ、映画から触発され自分のできる行動を続けていこうと私が思うのか。

実は私はこのことが、イエスによって蒔かれた種が私の内で育ち実っているからだと思っているのです。

イエスによって私は人間の尊厳に係ることに敏感になったと思っています。私にとっての種の実りです。

そしてあなたにもきっと同じことがある、と私は考えています。

さらに私はいま(現在)みなさんとともに、私の行動の中で、行動する理由と行動内容を

周りの人たちに伝え分かち合いをしています。私はイエスによる種の実りによって、

現在自分は、その種の種蒔き人にもなっているのを感じています。

 イエスが無条件の赦しと招きを語った、行動した、それは種を蒔くことであった。

そしてイエスは無条件の赦しと招きを生き切った、まさに自分の蒔くその種を生き切った。

イエスの蒔く種と、その種を蒔くイエスは、ひとつ一体なのですね。私はイエスにまねたいのです。

≪アデルフォイのみなで蒔く種≫

誰かが、あなたたちの教会アデルフォイが蒔いている種はどんな種ですか?と問うたなら、

アデルフォイのひとりひとりはどう答えるかな、私ならどう答えるかな?いろいろな答えが

出てくるといいですね、答えがひとつ、ふたつでは残念です、アデルフォイに

加わる人の数だけ答えがあるといいと思います。アデルフォイが重層的で魅力豊かで、

ひとりひとりにとって包容力受容力があるといいですね。

私の答えは、

○私たちアデルフォイが蒔いている種は、イエスのことばとふるまい、

新約聖書と旧約聖書に親しみ、そのメッセージを分かち合う、

そして自分もそのメッセージに生きたい。

○人を個人として重んじ大切にする、です。

 アデルフォイで蒔いている種と、アデルフォイである私たちは、

イエスがそうであったように、ひとつ一体でありたいです。

 

        2023年7月10日   石谷牧師記

 

 

 

2022年秋 説教要旨

[説教要旨]

     「ナザレのイエスからの勧め

abba・アバ(おとうちゃん)と暮しましょう」

         聖書箇所:ガラテヤ書4章1節~7節

「おとったん、こわーい!」井上ひさし原作『父と暮せば』(新潮文庫473円)のなかの、

冒頭のことばです。「おとったん」ということばから、娘の美津江と父・竹造の間にある

信頼と愛情の交流が伝わってきます。このあと、あの世から竹造が現れてきて、

美津江との互いの気持ちを伝え合う場面が続きます。被爆者である美津江は

この竹造との関係があるからこそ、それがささえとなり、ちからとなって、自分だけが

生き残ってしまったという心の重荷を抱えながら、新たな人生の旅立ちを始めることが

できるのです。

 

 「おとったん」と、まさに全くの同質の感情を乗せて、イエスが口に上らせたであろう

とされているのが、「abba」(アバ)です。abbaとは、「おとうちゃん」とでも訳せる、

子どもが父親に対して呼び掛ける、当時のユダヤ人が日常的に使用したアラム語の言葉です。

イエスは、人間を無条件に慈しみ受け入れ、愛でるその方を、わたしのアバ、私たちのアバ、

アバお父ちゃん、と呼ばずにはおれない、アバが一番ふさわしいことば、

とするようになったのです。イエスはアバとともに暮らしていたのです。

 

   そしてユダヤ教徒であるイエスの直弟子たちにとって、信仰の対象であるヤハウェを

abba・おとうちゃんと呼ぶことは、信仰の覚醒たる衝撃であったのでしょう、

イエスの教えの重要なことになったのでしょう。

集い、教会のなかで言い伝えられるべき宝、みなで共有する喜ばしい福音になった

ことでしょう。だから、十字架以前のイエスを知らないパウロにも、しっかりとこのabbaは

伝えられています。

 パウロは紀元54年頃に執筆したガラテヤ書4:6、紀元55~56年頃に執筆した

ローマ書8:15でabbaを、地中海世界・ヘレニズムの共通言語ギリシャ語で訳すると

pateru父の意味、を付記して読み手に紹介しています。

パウロいわく私たちにはこの方のこどもとして、abbaと呼べる霊が与えられている、と。

 

[アバにとって私たちは目に入れても痛くない愛しいそこなわれてはならないひとりひとりです]

イエスのたとえのいくつかには共通しているメッセージがあります。“いなくなった一匹の羊を、

99匹を野に残して探すまではあきらめない羊飼い”の羊牧場では100匹が

いなくてはならないのです。一匹も欠けてならない、いなくなった羊に代えられるものは

ないのです。“1枚の銀貨を探すまではあきらめない女性”の財布にその1枚はどうしても

欠かすことはできないのです。

放蕩息子の父親にとって、次男の存在はどうしても必要なのです。

イエスは何を伝えているのか、アバにとって、アバの国で、アバの場では、

一人一人が無条件に愛しくなんとしても失ってはならない必要な存在なのです。

  先日開催された日本メノナイト宣教会JMFセミナーでのBSさんのぶどう園の

あるじと労働者のたとえについてのお話に、私は深く共感し励まされました。

BSさんは、ご自分のお仕事において自殺願望を持つ方々からお話を聞くことがあり、

その方々の嘆きのひとつは、自分は誰からも必要とされていない、

この世に存在する意味をもたない者なのだ、ということ。

BSさんは、葡萄園のあるじが夕方も通りに出て行って立っている者に声をかけて

1時間働いてもらい一日分の賃金をこの者から渡していくたとえから、

あるじのぶどう園においては1時間の働き人も朝から12時間の働き人も、

みんな同じように必要な存在、このたとえにはいなくてもいい人間は一人もいない、

みんな必要とされているのだというメッセージがある、このメッセージに自分は

励まされている、そしてこのメッセージを自分が出会う自殺願望を持つ方と共に

なんとか実現したいと語られました。

どうでしょう、BSさんの≪たとえの読み≫、石谷は大いに共感、イエスに活かされている人が

ここにもいると励まされました。(ここまでのたとえルカ15章、マタイ20章)

ぶどう園のあるじには、夕方1時間働く者が必要なのです。この人たちに特別任務として、

みなが取り残したぶどう実の収穫とぶどう園農場の後片付けをしてもらった、などと想像したら

楽しいですね。ともかく、朝からの者に、夕方の者に、労働者みんなに働いてもらって収穫は

完成したのです。各人の働きの内容は違うが、あるじの葡萄園にとってはみんな必要な

働き人です。私はこのイエスのメッセージをもう少し広く受けとめ、人間の個性は多様であるが、

各人は家庭にとって教会にとって社会にとって、だれもその代わりのできない必要な存在です、

と言いたいと思います。

そうです、アデルフォイという集いには、それぞれ固有の生活の場を持ち、性質、性格、

関心が異なる私たちの一人一人がいなくてはならないのです。

自分とは違いのあるみんながいて、自分の信仰生活とアデルフォイの集いが続いてきたし、

続いていくのです。これをけっして忘れないようにしましょう。

 

[アバにとって私たちはつみびとではない]

アバにとって私たちはつみびとではない、目に入れても痛くない愛しい人間です。

アバにとって私たちはつみびとではないのですから、アバが私たちに罪を贖うもの、

私の罪の身代わりになるもの、を求めている、とは私は思わないのです。

このアバに応えることの中で私たちに自己反省がうまれ、自分は愛に欠けたる者、

アバの方からの愛と赦しと招きがあってこその者、という自覚が生まれることは

あるでしょう。しかし、そんな反省があろうがなかろうが、アバにとっては、

私たちは愛しい目に入れても痛くないない存在であって、

糾弾すべき罪人ではないのです、人間に贖罪を求めるアバではないのです。

私はイエスのふるまいと語りしこと、たとえにふれることでその感を深くしております。

私たちが気付けば、私たちはイエスと同じようにして、アバと共に暮らしているのです、

私たちが望めばアバとともに暮らせるようになっているのです。

[アバの肯定そして協働の招き]

 山上の説教マタイ5章から7章にはイエスがこんな風に生きたらどうか、

と語った教えがまとめて記されています。メノナイト教会はその起こりのころから、

山上の説教を自分たちの生活の場で出来る限り実践しようとしてきました。

私はこの箇所を次のように読みます。山上の説教は、自分を愛でてくださる、

いつでもどんなときでも肯定してくださるアバと共に暮らすイエスのこの世での

生き方であり、イエスからの、どうだい、あなたがたも私に加わらないかとの呼びかけ、

と読みます。みなさんはいかがでしょうか。イエスの命令ではないのです、

一緒に取り組んでみようよ、という呼び掛けなのです、応えませんか、私と一緒に。

完璧を求めず、できるだけしてみよう、と。

 

さて、『父と暮らせば』のラストシーンです。

美津江  こんどいつきてくれんさるの?

竹造   おまい次第じゃ。

美津江 (ひさしぶりの笑顔で)しばらく会えんかもしれんね。

竹造   ・・・・・・。

「おまい次第じゃ。」と「・・・・・・。」 この終り方はいいですね、竹造の美津江に応える

満面の笑顔を私は想像します。いくつになっても愛しい娘の新たな旅立ちを祝福する父が

ここにおります。美津江の新たな自立です。

マルコの記すイエスのアバへの最後の祈り。「アバ、お父さん、あなたには何でも

おできになります。この杯を私から取り除いて下さい。しかし、私の望むことではなく、

あなたの望まれることを」。(岩波訳2004年)私はアバと暮らしているイエスの静かな

決断を思います。アバとイエスが望み選んだのは、人間を愛しむということでした。

そして、いま・ここでもアバはイエスと共に、人間はみんな無条件に愛おしい、

とのメッセージを実現しつつ歩まれています。私たちはいくつになってでも、

アバとイエスと共に暮らしていけますよ、と私はあなたにお勧めします。

 

            2022年11月23日  石谷牧師記

2022年の夏 説教要旨

「イエスの平和を生きよう、作ろう」

 2022年が始まって7ヶ月が過ぎました。この間、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が

起こりいまだ停戦になるような状況ではなく、国内では元総理が銃で撃たれて死亡し、

原因となった背景には市民として且ついち宗教者としても関心を持たずにはおれないし、

コロナ禍は2年半年も私たちの生活に影響を与え続けており、これまた終息の見通しなし、

というような状況です。このような現実状況の中にイエスがおられたらいったいどんな平和作り

をされるのでしょうか。

 と問われても、即座には答えが見つからない私です。けれども、福音書のなかでイエスは

出会う人たちにどう接していますかという問いには、出会いの物語を思い出しながら

答えることができます。イエスはいまここでも、平和作りというよりかは、出会う人とどのような出会いを

するかに心を傾けるのではないか、そしてこのことがイエスの作る平和ではないか、

と考えて私は以下を語ります。

 

 たとえば、イエスはこどもたちにどう接しているか。

成人した大人のイエスは、こどもを愛(め)でてますね、

それも無条件に可愛がる大人のイエスです。こどもたちがイエスに近づくのを止めようとした

弟子たちを叱りつけ、こどもを引き寄せ抱き寄せ、その頭(こうべ)に手を置いて

祝福する(按手する)イエスでした。こどもに対しては、こどもであるというだけで、

破格の扱いをするイエスです、あれこれと理由などないのです。こどもたちは無条件の愛を

必要としていることを、意識しないで、体現します。イエスは私たち成人した者にも同じことを

期待していると私は思うのですが、みなさんはどう思われますか。

(マルコ10章13節以下)

 というわけですから、もしも私たちがイエスのように生きてみたいと思うのであれば、

身近にいるこどもたちから始めて、世界中のこどもたちを大切にしていくことです。

今の現実は、日本でも世界の各地においても、ひもじさ、思う存分に学校に通って勉強できない、

児童労働にしているなど、苦労をしているこどもたちがいます。私たちは自分のできるこどもを

大切にする行動を、先ずは身近にいるこどもに、それから少しずつ広げて始めていきましょう。

こどもは庇護され扶養され育てられていくことが必要です、そしてやがて私たちと同じ

大人になる人格、存在です。こどもを大切にすることは私たちの、イエスの平和作りになると思います。

そして振り返り感謝します。実は私(たち)こそが、むかし大切に育てられたこどもだったのです。

 

 さて、イエスは女性にはどう接しているでしょうか。

私は福音書の中から、イエスと女性の出会いの物語の数々を読み直してみたのですが、

こどもとの出会いに見られるような、女性だからということで特別に大切にするイエス、

というような物語はないように思いました。イエスが男性に出会う物語との差異がないのです。

(マルコ5章21節以下、マルコ5章25節以下、マルコ7章24節以下、ルカ7章36節以下、

ヨハネ8章1節以下、ヨハネ11章17節以下など)

しかし、このことが実は衝撃なのでした。イエスの生きたユダヤの地でも、現在の日本でも、

男ではなく、女ということだけで背負うにつらい重しを負う女性たちがおります。

性の所属を強いられて辛い思いをする人がいます。

 そういう中で、イエスには、男性と女性の間に分け隔てがないのです。イエスと同じ成人した

おとな同士なのです。このことを広げていくと、同胞のユダヤ人を義人と罪人とに分け隔てする

イエスではないのです、さらに、ユダヤ人とローマ人をことさらに区別していく

傾向を持つイエスでもないように私は考えるのです。成人した人間同士として、女も男もなく、

性の枠を越えて、義人とか罪人とかの視点で同胞を見ることを越えて、国籍を越えて、ひとりの人間、

となり人として見ていくイエス、と言えるのではないでしょうか。

そしてその根拠は「父は悪人たちの上にも善人たちの上にも彼の太陽を上らせ、

義なる者たちの上にも不義なる者たちの上にも雨を降らせて下さるからである(マタイ5章45節)」

というイエスのアバの人間に対する姿勢です。アバは人間を分け隔てることをしないのです。

 というわけですから、もしも私たちがイエスのように生きてみたいと思うのであれば、

私たちも、性別、行いの様子、宗教、国籍による分け隔てをしないことを、

身近にいる人から始めて、出会う人に接していこうではありませんか。

このことは私たちの、イエスの平和作りだと思います。

 

 私がいま述べていることは、すぐには日本社会の平和と世界の平和を作りだすことには

ならないでしょう。すぐには軍事侵攻・紛争を止めること、暴力行為を止めることには

ならないでしょう。でも、はちどりの一滴、平和を産み出す善き土壌作り、平和文化作りです。

人間を分け隔てしないことが当たり前のようになる、そこまでいかなくてもそのような姿勢で

生きようとする人が一定程度になったら、何か善きことが起こるかもしれません。

長い長い道でしょうが、歩き始めれば目的地は近付くのです。

 

 そうは言っても、この二つは、言うは易く行いは難しです、そのとおりです。完璧はありません。

そもそも完璧な結果というのは私たちには作れないのではないでしょうか、大事なことは、

続けていくということです。私たちは、自分の生活の場でイエスの平和を生きてみたいな、

イエスの平和を作ってみたいな、というあこがれを持っています。

こどもを大切にする行動と人を分け隔てしない行動を少しでも重ねましょう。

私はこのことがイエスの平和を生きていることだし、イエスの平和を作っていることなのだと考えています。

 

            2022年8月7日  石谷牧師記

アバ、自分で考えて行動する私たちと この行動を用いてください

「アバ、自分で考えて行動する私たちと この行動を用いてください」

 私のルカ聖書の読み方について書きます。読者のみなさんを惑わせるためにではなく、

ナザレのイエスのこころざし(イエスのこころざしと生涯はアバの意思そして喜び)を、

私たち一人ひとりが、自分が考え決めた行動で生きることができるんですよとお伝えしたいのです。

 私は若いころには先輩、親、尊敬する人を模範にしてあるいは助言を得て生活することがありましたが、

この年齢になり、模範にさせていただいた方の多くは地上の歩みを終えられており、

かつ自分の現在の生活の状況をあれこれと考えると、自分の行動は自分で決めていくしかありません。

みなさんは、ご自分の行動をどんな風に決めておられるでしょうか。

 と書きましたが、若いころに模範にした、助言を得た、とはいっても、どなたを模範にするか、

どなたから助言を得るか、という段階から始まって、

実は若いころも(幼少期と少年期は違います)、自分の行動は自分で検討し決断してきたのだと思います。

 自分の行動は自分で決めることを、ルカもしていました。私はこのことをルカ福音書10章25~37節、

善きサマリア人のたとえと呼ばれている箇所から読み取りました、感動しました、

そして自分の行動は自分が決めて良いのだと励まされ促されました。

 ルカは、信仰、国籍や民族や性や身分や年齢などを越えて、人間と人間は困っている時には助け合う、

助けを必要としている者には自分のできることをすることが、自分の信じている神の望んでいることである。

言い換えると、神は私たちに “隣人愛”を持つように願っている、と同じ信仰の仲間や周りの人間に伝えたいと

願ったのでした。その理由としては、ルカの周辺に自分の隣人の範囲を自分の都合を優先して

狭く小さく決めようとする傾向があって、それはイエスの弟子の姿勢ではないとルカは考えたのではないか。

そしてこの自分の思いを福音書の中でどう書き読む者に伝えるかを考えたのです。そしてルカは、イエスに関する

ふたつの伝承を採用して独自の物語を作ることを決断したのではないか。「アバ、自分で考えて行動する私を、

私のつくる物語を用いてください」と祈りつつ。

そう読めるのが、善きサマリア人の箇所です。伝承は「イエスが教える黄金律」とイエスが語った

「ひん死のユダヤ人をサマリア人が助けるたとえ」です。

 

「ひとつ目の物語」

ルカは(マタイ福音書も同様)、マルコ福音書を参考にして、これに彼の独自資料とイエスの語録を

集めた資料をかたわらに置いて、そしてなによりルカの主体性と自由を存分に発揮して、

自分の福音書を仕上げました。

 私は善きサマリア人のたとえの導入部に、彼の独自性を感じます。ベースになっているのは

マルコ福音書12章28節から34節であり、読むとこうなっています。律法学者が律法のなかで

最も大切なことは何ですかとイエスに問うと、イエスはいわゆる黄金律と私たちが言う、

思いを尽くしてヤハウエを愛すること、自分を愛するようにとなり人を愛すること、と答えるのです。

それを聞いて律法学者は納得同感します。マタイはほとんどこのエピソードを自分の福音書に

コピーしています(22章34節~40節)。 ところがルカはこのエピソードを彼独自の物語の

挿入部に使って、サマリア人のたとえにつなげています。

次のような物語が生まれています。

1.律法学者がイエスに問います。永遠のいのちを受け継ぐために何をすれば良いか。

2.イエスが問います。あなたはどう思うか。

3.律法学者が、いわゆる黄金律を守ることと答えます。

4.イエスが納得同感そのようにすれば良いと回答します。

5.律法学者が、今度は、それでは隣人とは誰かと問う。

6.これを受けて、イエスがいわゆるサマリア人のたとえを語ります。   というような展開です。

なんと、イエスが言ったとされている黄金律を、ルカは律法学者に言わせているのです。

そしてさらに律法学者に「隣人とは誰か」と問わせ、これを受けてイエスがたとえを用いて隣人愛を

説明していくというふたつ目の物語が作られているのです。

 

「ふたつ目の物語」

イエスのたとえそのものは30節から35節まで、ルカはその両端に「隣人」という言葉を置いて

たとえを挟み込むのです。この挟み込みによって、たとえは隣人を説明するたとえとして

読まれるようになります。

たとえの部分だけを読んでの私の感想は、およそそのような恵みを受けるにはふさわしくない、

資格がないと思われる人間への無条件の救い、破格の恵みが語られているということ。

放蕩息子やぶどう園の労働者のたとえにも共通する、私たちの意表を突くどんでん返しの結末、

すべての人間は尊厳を持つ大切な存在、置き去りにされてはならない、

喜び生きるように招かれている存在なのだというアバの愛です。

このたとえを隣人愛の説明に用いたルカは大胆なことをしていると思います。

 

 さらにこの物語の冒頭の、

律法学者のイエスへの問い、「永遠のいのちを受け継ぐために何をすれば良いか」、と

結語の、イエスの告げる「行ってあなたも同じようにせと」の間に物語があることによって、

永遠の命を得るために、救われるために、行為、行動、業績が必要である、というふうにも

なりかねないことになってしまいます。このことを、

イエスの無条件、資格無しの救いの宣言を安価なものにしてはならないという、

ルカからの警鐘として受け止めて、やはり、救いはまず、無条件の恵みと赦しと招きによって生まれる、

を確かめたい。

 

 そしてルカを参考にして私はこう考えます。私たちは自分の生活の場でイエスのメッセージに

生きたい、他の人と分かち合いたいとの願いを実現しようとして、自分の把握している

イエスの思い・メッセージを、自分なりに想像しふくらませて独自の行動をしますが、

それは間違ったことではないのです。なぜなら、自分の生活の場は、イエスの生活の場と

大きく重なっていますが、違っている点も大いにあるからです。私たちが自分の生きる状況の中で

イエスを生きようとするならば、いまここで自分はどういう行動をしたらよいかを考え、

祈りつつ思い巡らし、最終的には自分の主体性と自由と責任で決断し行動していくしかないのでないか

。その際には完璧などありません、失敗、的外れ、いま一歩及ばない、などなどやぶれと欠けは尽きません。

しかし、そういうわたしたちとともにイエスあり、ルカとともにイエスありと私は信じます。

以上は私のルカ福音書についての読みです。

  「アバ、自分で考えて行動する私たちとこの行動を用いてください」と祈ります。

                                                                         以上

 

                 2022年6月26日       石谷牧師記

礼拝堂菜園のふきのとう

  広島もまだまだ寒い日が続きます。

日本海側の山陰から北陸、東北、北海道にかけては暴風雪の様子です。

北国に住む方はいっそう春の到来をお待ちのことと思います。

 昨日、寒風の中、礼拝堂の周りの草取りをしていましたら、

菜園のなかに「ふきのとう」を見つけました。

季節は今年も確実に進んでいます、花咲き乱れる時を待ちたいと思います。

 

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          2022年2月21日   石谷忠之牧師記

 

 

 

 

「閑雲野鶴(かんうんやかく)のランニング」

 お読みくださるみなさん、いつもありがとうございます。
なにか、みなさんが読んでにんまりできるようなことを書きたいな、と
思っています。生活を続けていけるから、いろいろなことに直面します、
できればねぎらいの言葉を互いに交わし、根っこにおいて
生きていることを喜び感謝したいと思います。
 詩を書きました。
    「閑雲野鶴(かんうんやかく)のランニング」
あなたくらいの歳(とし)になったら
もう貯金ではなくて貯筋を心がけなさいといううながしに
それはそうだと同感し始めたのがランニング。
とは言っても
とうに貯金できるような収入はなし
むしろ少々の貯えが頼りのわたしなのだが。
ランニング
わたしにはその気はあるのだが
全く早く走ることができない
歩いて進むのとさしてかわらじ。
思い起こせば50年ほど前
中学校の運動会での800m競争では常勝のわたし。
そのころがなつかしくいとおしい
あのころから残っているのは1分間の心拍数45から55
このからだでずっと生きてきたんだ
早く走れた時は過ぎ
今日はのろのろ走法
このあとどうなる
閑雲野鶴(かんうんやかく)のランニングが待ってくれている
ああ
大袈裟になってしまいました
          2022年2月19日土曜日
                石谷忠之牧師記

わたしたちはどんな日本を作ってうこうかなあ

     わたしたちはどんな日本を作っていこうかなあ
おさなごの ああちゃんは、どんな日本で大きくなっていきたいのかなあ
青年の すうさんは、どんな日本なら自分の夢を実現していけるのかなあ
おとなの もうさんは、どんな日本にしたいと思っているのかなあ
からだとこころの調子を良くしたいと思っている ようさんの望んでいることはなんなのかなあ
外国籍の たあさんが願っている日本社会とはどんな社会かなあ
おとしよりの ふうさんは、日本がどんなになることを願っているのかなあ
日本のまわりの国のひとたちがわたしたちに望んでいることはなんなのかなあ
うふっ
そう
そう
笑顔をたやさないで わたしは ことばの種を蒔こう
みんなが たがいに応援し合えるように わたしは ことばの種を蒔こう
      2022年2月18日金曜日     石谷忠之牧師記

私の宮島弥山(みせん)での定点観測

 11月3日に宮島弥山(みせん)に登りました。

登りは紅葉谷コースで2時間、下山は大元公園を目指して1時間。

昼食は、駒ヶ林の一枚岩の上で。コロナ感染しない・させないと心がけた楽しい山歩きでした。

 毎年11月3日の弥山登りを―私が大学教育現場に勤務していたころ、学生のみなさんと

切磋琢磨できる職場に異動した20年前に始めた―私は昨年に比べて自分の体力は

どうなっているかをチェックする定点観測としていたのですが、体力チェックにとどまらないものがある

ことに気付きました。

 弥山登りの事前のことでは、今年も登るぞという気力、乗り物の時刻を調べてみなさんに

ご案内するという企画力、安全に登り降りする体力と注意力、予定外のことへの対応力。

これらが、昨年に比してどうなっているか、つまりは元気に自宅を出て無事に帰宅できるか

という「総合力」を実はこれまで試していたのだと気付いたのです。

そして、今年もなんとか大丈夫、でした。

 

 ところでこの「総合力」を私はどのように養っているのだろうかと考えます。

 

 なんの本で読んだかは忘れてしまったのですが、

高齢者の身体と認知機能の低下を「フレイル」というのですが、

評論家の樋口恵子さんが三つ「ショク」を大切にしましょうと書いていました。「食」と「職」と「触」です。

「食」。食べることは生きるちからになりますから、基本中の基本、私たちは日頃から大事にしています。

私の食が大事にされて今があります。誰かのように時々食べ過ぎ飲み過ぎになってはいけないでしょうが、

楽しく栄養あるものを美味しく十分に食べたいですね。

「職」は「仕事」。台所仕事でもお裁縫でもお掃除でも私のような冬の寒い間の窓の結露拭き、山登りでも、

アタマ・脳とからだに適当なストレスがあり、実際の動きがあります。しかもやり遂げた感・達成感がありますね。

組織で働くことはなくなっても、生活者であろうするならば、仕事に尽きることはありません、

感謝です、嬉しいことです。

 「触」。これは誰かとのやりとりです。この点で私は自分がたいへん幸いな者と感じています。

こうしてみなさんに通信を出すこと、主日礼拝でみなさんにお会いすること、ズームを使ってのイエスの譬え話に

ついての語らいで、参加のみなさんから自分とは違った受けとめをお聞きすることなどなど、

だれかとのやりとりによって、私の学ぶことに終りがありません、感情が動きます、そして孤立を感じないでおれます。

(やがて、生かされてきた地上の歩みを、ひとりで終えるという孤独は、養いたいと思っておりますが。)

 

私の弥山登りで感じた「総合力」は、三つ「ショク」に因っていると言っても良いかなと思います。

 

この定点観測の機会を長く続けます。登り降りの両方をこなす体力がなくなったら、

どちらかをロープウェーにしてもいいです。そのあとは両方ともロープウェーになるかな。

この場合は「総合力」のなかの「柔軟力」が発揮されるのです。

 

              2021年11月11日  石谷牧師記

 

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