「きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、
神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたに、それ以上よく
してくださらないはずがあろうか。マタイ6:30」 イエスと花は、こう
ささやく。
人間が、自らの手で人間社会に作る現実は、人間に厳しい。
なぜこうなのだろう、なぜもっと優しくなれないのか。
年収1千万円を超す者には残業代を支払わないでよいような話しが交わされ
始め、中小企業は1千万円ではなく減額したらどうかなどと話しが加わる。
こんなことから数えて切りがないほどに、最近、私たちの暮らしの現場は、
人間の命、時間、その土地に育まれた文化や習俗、人の繋がりに、
尊敬を払うことなく、そもそもお金に換算することも慎重であってほしいのに、
あまりに安く見積もられ過ぎではないか。
イエスと花のささやきは、やがてイエスの行動となった。
「ささやき」を実現せねばならない厳しい現実がその時もあった、
イエスは語るだけではなく、行動して実現しようとした。
「私」「あなた」「教会」が「沈黙」していることは、
昨今の風潮を支持し応援することになっている、そうは思ってなくても、
いままでの歴史、どの国でも、「沈黙」は現政権への無言の支持となる。
きょうの、人間の、私たちの尊厳、いのちと暮らしの平安は、守るものではなかった、
昨日までの尊厳と平安は昨日で終っていたのだ。
きょうの尊厳と平安は、きょう神ととともに私たちが作りだすものである。
この簡明な真実を痛切に感じるこのごろです。
「平和を作りだす者は幸いである。
彼らは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9)
声を上げましょう、行動しましょう、
でないと石が叫びます、石が行進を始めます。
(2014年7月9日 石谷牧師記)