9月の礼拝メッセージ(要約)

 「わたしを大切にしてください」とみな願っているのです。

この気持ちを分かってくれる方だと感じたからこそ、病人も、生活に苦労する者も、

身内のいやしを願う者も、社会から疎外されたような者も、孤立を覚える者も、

イエスのもとに寄ってきたのです。

 ある日は、子どもたちと親たちでした。(マルコ福音書10章13節から16節)

「こどもたちを祝福してください。」

親たちのまなざしの中には、子どもたちの健やかな成長を思う自分たちの

こころに、イエスよ、あなたのこころを合わせてください、

こどもたちのこれからの日々に、神よ祝福を与えてください、と祈ってほしい、

との願いがありました。

「イエスよ、わたしたちを大切にしてください」との願いです。

 

 「わたしを大切にしてください」は、いま、ここで生きている私が、それを聞きとる

ことのできる耳と、見てとることのできる眼と、感じとる心をもつならば、

わたしのそばに、もうだいぶ以前から、いままさに、立っているのだと思います。

 

 私たちは鈍感なところがあると思います。

イエスの弟子たちがそうでした。こどもたちをつれてきた親たちを追い払おうと

しました、目が見えずものごいをしていた人が「イエスよ、わたしをあわれんで

ください」と叫んだときには、叱りつけ黙らせようとしました。(マルコ10章48節)

隣人のこころの奥底にある、もうこらえきれずに叫び出る、

「わたしを大切にしてください」に、鈍感なのは弟子たちだけではありません、

わたしも鈍感であり思い及ばせることができないのです。

 

 日本の各地で起きる事件、事故の報道は絶えることはありません。

一人のいのちが本当に大切にされている記事には、慰められたり、

共感し励ませられたり、歩む方向を示されたりします。

他方で、「わたしを大切にしてください」との思いが受けとめられず、

恐ろしい凄惨な犯罪に暴走していったこどもたち、おとなたち、年寄りたち、と

感じる記事を毎日のように読むのです。

私を含めて人たちにいったい何が優先されているのか。

世間体、世の常識、長いものには巻かれろ、自分には関係ない、

自己責任、自分は忙しい、自分には何もできない、自分の欲望を満たしたい・・・ 。

認めましょう、あるのです、私たちは人を大切にできない理由を

抱え込んでいるのです。自分を他人を責めるのではなく、認めましょう。

 

 そして肝心なことがあります。

そんな弟子たちが最後までゆるされて、

心配りを受けて、イエスに従うことができたのです。

ひるがえってわたしたち、どれほどに出会った人たちから、

この鈍感さ、思慮の足りなさ、愛の欠けたることを赦されてきたことか。

 

 感じた者たちから、感じたときから、始めようではありませんか、

わたしもあなたも、福音書のイエスのようにはいかないでしょう、

しかし、指し示されているのです。

人はみな「わたしを大切にしてください」と願っているのです。

応えていこうではありませんか。その気持ちに、その身体に、わたしたちの

せいいっぱいのあたたかな手を、今日からでいいのです、

手を差し出し始めようではありませんか。

 

          2014年9月23日 石谷牧師記

 

 

 

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