「わたしを大切にしてください」とみな願っているのです。
この気持ちを分かってくれる方だと感じたからこそ、病人も、生活に苦労する者も、
身内のいやしを願う者も、社会から疎外されたような者も、孤立を覚える者も、
イエスのもとに寄ってきたのです。
ある日は、子どもたちと親たちでした。(マルコ福音書10章13節から16節)
「こどもたちを祝福してください。」
親たちのまなざしの中には、子どもたちの健やかな成長を思う自分たちの
こころに、イエスよ、あなたのこころを合わせてください、
こどもたちのこれからの日々に、神よ祝福を与えてください、と祈ってほしい、
との願いがありました。
「イエスよ、わたしたちを大切にしてください」との願いです。
「わたしを大切にしてください」は、いま、ここで生きている私が、それを聞きとる
ことのできる耳と、見てとることのできる眼と、感じとる心をもつならば、
わたしのそばに、もうだいぶ以前から、いままさに、立っているのだと思います。
私たちは鈍感なところがあると思います。
イエスの弟子たちがそうでした。こどもたちをつれてきた親たちを追い払おうと
しました、目が見えずものごいをしていた人が「イエスよ、わたしをあわれんで
ください」と叫んだときには、叱りつけ黙らせようとしました。(マルコ10章48節)
隣人のこころの奥底にある、もうこらえきれずに叫び出る、
「わたしを大切にしてください」に、鈍感なのは弟子たちだけではありません、
わたしも鈍感であり思い及ばせることができないのです。
日本の各地で起きる事件、事故の報道は絶えることはありません。
一人のいのちが本当に大切にされている記事には、慰められたり、
共感し励ませられたり、歩む方向を示されたりします。
他方で、「わたしを大切にしてください」との思いが受けとめられず、
恐ろしい凄惨な犯罪に暴走していったこどもたち、おとなたち、年寄りたち、と
感じる記事を毎日のように読むのです。
私を含めて人たちにいったい何が優先されているのか。
世間体、世の常識、長いものには巻かれろ、自分には関係ない、
自己責任、自分は忙しい、自分には何もできない、自分の欲望を満たしたい・・・ 。
認めましょう、あるのです、私たちは人を大切にできない理由を
抱え込んでいるのです。自分を他人を責めるのではなく、認めましょう。
そして肝心なことがあります。
そんな弟子たちが最後までゆるされて、
心配りを受けて、イエスに従うことができたのです。
ひるがえってわたしたち、どれほどに出会った人たちから、
この鈍感さ、思慮の足りなさ、愛の欠けたることを赦されてきたことか。
感じた者たちから、感じたときから、始めようではありませんか、
わたしもあなたも、福音書のイエスのようにはいかないでしょう、
しかし、指し示されているのです。
人はみな「わたしを大切にしてください」と願っているのです。
応えていこうではありませんか。その気持ちに、その身体に、わたしたちの
せいいっぱいのあたたかな手を、今日からでいいのです、
手を差し出し始めようではありませんか。
2014年9月23日 石谷牧師記