1923年9月1日関東大震災のあと、フランス駐日大使クローデルは、
「大津波、台風、火山の噴火、地震、大洪水などたえず大災害に
さらされた日本は、地球上の他のどの地域よりも危険な国であり、
つねに警戒を怠ることのできない国である」と述べたそうです。
(毎日新聞2014年10月4日(土)朝刊余録)
記憶し感じたこと知ったことを、生活に活かし続けることは誰にとっても
たやすいことではありませんが、阪神淡路大地震、東北大地震大津波、
広島土砂災害、御嶽山噴火…日本列島には100年単位、1000年単位、
1万年単位で、大自然の営みとしての動きがあるのだと思います。
多くの人たちが命を失った事実に心が痛みます。懸命に続く御嶽山での
安否不明の方の捜索活動、この方たちが早く家族の元に戻されていくことを願います。
この大自然の営みは私たちには、「災害」であっても、あるいは「想定外」と
したくても、それは当の日本列島の大自然からすると、あること、なのだと
痛感した2014年の8月9月となりました。
このことを私たちの生活に活かしたいと思います。
どう活かすことができるのでしょうか。
危険をいちはやく察することに努める、そして逃げる、避難することは
そのひとつです。このたびの土砂災害のあと、広島県では市町村の首長
による防災研修会がありその一部が報じられました。
「空振り三振でよい」しかし「見逃し三振はすまい」これは避難勧告、避難指示を
ためらうなという内容での言葉です。命がかかっているのです、逃げて、何もなかった、
でいいのです。避難を始めるレベルを今までよりも下げて、今までは「大げさ」だった
レベルからにする、ということにこれからはするでいいのだと思います。
それにしてもと考えます。
「危険に満ちた日本列島」に原発はあっていいのでしょうか。
私たちの生きている間は事故は起こらないかもしれない、しかし、日本列島では
いつ、何が起こるかわからない。原発が稼働すれば廃棄物もたまる一方である。
人間の健康を損なう放射線を出して稼働する原発を次の世代の人たちの暮ら
しのただ中に残していいのか。
私たちは日本列島の営みから何を学んでいるのか。
広島では毎月第1と第3金曜日の夕方から、市民有志によって原発の廃棄を求める
市民デモが続けられています。私は改めてこのデモに参加し続けようと思います。
アデルフォイの庭に秋の訪れの花が今年も咲いてくれました。
「ほととぎす」です。はなびらがホトトギスの腹の斑紋に似ているでしょう、
日本列島の豊かな自然は季節の花を私たちに贈ってくれますね。
その豊かさのなかには「危険もちゃんと含まれてある」のだ、
ことしはそのようなおもいでこの美しい「ほととぎす」の花を
みる私です。
2014年10月7日 石谷牧師記