ラジオで浪曲「木村の梅」を聞きました。
家康ゆかりの梅の木「木村の梅」を別格扱いにして、その枝を折ってはならぬと警護まで
付けて守ろうとする三代将軍徳川家光でした。枝を折ろうものなら重罪に課せられます。
警護者は24時間体制で緊張しつつ交代で梅の木を守ります。このようなことはおかしなことと、
家光の育て親のような家臣大久保彦左衛門は、家光の面前で梅の枝を折りに折ります。
驚き怒る家光に彦左衛門は目に涙をいっぱいにして「あなた様は、人間よりも梅の木を
大切にされるのか」と訴えるのでした。彦左の熱情の形相、そして家光は我にかえって、
自分の愚かさあやまちを知り、捨て身の彦左に礼を述べる。
この話は、主張、意見を異にする持つ者たちの間に和解と平和を作り出す上で示唆に富むものです。
彦左の願いは家光には分かってはもらえないかもしれないが、彦左はもうこれしかないという行動に
打って出ます、家光の胸に飛び込む、切腹を言い渡されるやもしれません。
しかし家光は彦左の意見に従います、自分の愚かさ、間違いを素直に認めて彦左の気持ちと共に
あろうとします。
この両者に和解あり、この両者に平和あり。
家康公を感服させた豊臣方武将「木村」の名を冠した「木村の梅」をこののち多くの家臣、人々が愛でることでしょう。
そして武将「木村」の人となりもまた語り継がれることでしょう。
私たち人間はみな間違いをするのです、愚かなところがあるです。どこにも、どんな時代にも間違いを起こさない
人間はいませんでした。人間を神としてはなりません。特に私たちは、国民のいのちとくらしに大きな影響力を
持つ権力者に安全神話を持ってはなりません、彼らもまた人間であり間違う者、判断を誤るのです。
権力を持つがゆえに、彼らの間違い、判断の誤りの影響は甚大、国民を不幸にします。我が国のそして
世界各国の歴史の事実です。
私たちは生活の場を多くの人間で作り合っています、ならば私たちが平和に生活する場を多くの人間で
協力して作り合うのです。その際、それぞれには独自の主張や意見、価値観、求めているものがあります、それに
よって行動をします。もし、私には相手のしていることが私の平和になっていない、相手に自分の願って
いることに一緒に取り組んで欲しいと思うなら、私たちはどうしたらいいでしょうか。
私がまず相対する人間に歩み寄って願っていることを伝える、これに対する応答は相手に委ねて相手も
歩み寄ってくれることを願う、これが私たちが望んでいる平和作り、双方によって自発的に作られる平和作りの手法です。
イエスの人々のところに出かけていく姿、敵意を持つ者たちにも語りかけていく姿が、ふたたび私たちに迫ってきます。
2016年3月2日 石谷牧師記