深紅面目27 「私とabbaおとうちぁん」

 

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     今年も礼拝堂にアガパンサスの花が咲きました

 

読者のみなさんへ

 いつもお読みくださりありがとうございます。ある日の礼拝説教を掲載します。

        「私とabba・アバ(おとうちゃん)」

         聖書箇所:ガラテヤ書4章1節~7節

お願い:実際に聖書箇所を開いて、ゆっくりと読んでいただければ幸いです。

 

 「おとったん、こわーい!」

井上ひさし原作『父と暮せば』のなかの、冒頭のことばです。

「おとったん」ということばから、娘の美津江と父・竹造のあいだにある信頼と愛情の

交流が伝わってきます。この竹造との関係があるからこそ、それがささえとなり、

ちからとなって、被爆者である美津江は、生き残ってしまったという心のきずを

抱えながら、新たな人生の旅立ちを始めることができるのです。

 

 「おとったん」と、まさに全くの同質の感情を乗せて、イエスが口に上らせたであろう

とされているのが、「abba」(アバ)です。abbaとは、「おとうちゃん」とでも訳せる、

子どもが父親に対して呼び掛ける、当時のユダヤ人が日常的に使用したアラム語の

言葉です。

 そしてユダヤ教徒であるイエスの直弟子たちにとって、信仰の対象であるヤハウェを

abba・おとうちゃんと呼ぶことは、信仰の覚醒たる衝撃であったのでしょう、

イエスの教えの重要なことになったのでしょう。集い、教会のなかで言い伝えられるべき宝、

みなで共有する喜ばしい福音になったことでしょう。だから、十字架以前のイエスを

知らないパウロにも、しっかりとこのabbaは伝えられています。

 パウロは紀元54年頃に執筆したガラテヤ書4:6、紀元55~56年頃に執筆した

ローマ書8:15でabbaを、地中海世界・ヘレニズムの共通言語ギリシャ語で訳すると

pateru父の意味、を付記して読み手に紹介しています。

パウロいわく私たちにはこ、の方のこどもとして、abbaと呼べる霊が与えられている、と。

 

 いったいイエスはどんな状況のなかで、abbaと言っていたのか。弟子としては、

第二世代か第三世代なるマルコは、イエスの直弟子たちが伝えたであろうabbaを、

マルコ福音書14章36節で紹介しています。イエスがゲッセマネでこのabbaを使って

祈っています。なぜイエスは、神の名前である固有名詞ヤハウェでなく、普通名詞で

神の意味のエロヒームでもなく、abbaを使ったのでしょうか。それは、イエスにとって

自分が信じている存在と自分との関係は、親密なる親子の関係だったから

なのではないでしょうか。その強い結びつきをエロヒームでは、そしてヤハウェでも、

言い尽くせなかったのではないでしょうか。

捕縛され殺害される恐怖の状況下、「abbaおとったん・・・!」、イエスが切実なる

気持ちを託した呼び掛けです。そしてこの関係があったからこそ、イエスは祈りから

立ち上がっていったのです。

 

 ところが、ペテロやパウロらのあとの、第二世代、第三世代の弟子たちは、

このabbaを気にいらなかったようです。マルコ(紀元70年代)までは、

abbaにpateru・父よ、が付記されていますが、

マタイとルカ(両福音書とも紀元80年代執筆)はなんと、abbaを削除し、

pateruのみにしています。イエスに由来すると思われる伝承が、早々に消えていく、

なんともったいない残念なことでしょうか(マタイ26:39節,ルカ22:42節)。

新約聖書の他の文書にabbaはありません。

 

 なぜ、このようなことが起きてくるのでしょうか。私のこれまでの見聞から考えるに、

ユダヤ教徒ではない異邦人(私たち日本人も含む)に対して、イエスのことを

伝えようとするときに、あまりにユダヤの地にしかないローカルに過ぎること、

あまりにユダヤ教過ぎることは封じ込めて、むしろ、どんな人間にとっても、

どの地域であっても、通用する、標準語的、普通名詞的なことが

大事にされていくのではないか。また、キリスト教はユダヤ教とは違います、

と主張していくならば、いかにもユダヤ教の香りが残ることがらや言葉は

使われなくなるのではないか。私のこれからの研究課題のひとつです。

イスラエル・ユダヤの一言語であるアラム語のabbaは、キリスト教会第二世代、

第三世代のころ、キリスト教会の宣教のことばが作られる過程で消えたのです。

 

 私自身は、このごろは、自分が信じている方―あの十字架上のイエスとともにいて、

イエスの歩んだ道こそわが意志として、人間を憎むのではなく、むしろ最後まで苦しみと

悲しみのうちに、イエスとともに人間の拒みを受けとめ赦した方―に祈るときに、

イエスに倣って、「abba」と自分の祈りを始めています。

 そして実感していること。それは、abbaとの関係だけではなくて、

私と私の周りの‐人間を含む‐いのちとの間に、生きて在ることの喜びを交流できる関係がある

ことの可能性です。この関係があることで、私たちは健やかに、自発的に主体的に、

一人一人の生活において、忍耐し自分を省み、ひるまないで希望を燃やし、

何度でも立ち上がっていけるのではないでしょうか。「関係」が問題を解決する

わけではありません、「関係」は問題を解決していくために力を発揮します。

願わくは、私たちが、家庭、教会、人たちと作る社会で、そのような関係を

産み出せますように。

 

 さて、みなさん、イエスのabbaには、全幅の信頼と、私はあなたに愛されて

おり平安です、という信仰が込められています。

あなたもイエスに倣ってabbaと呼び掛け祈ってみませんか。

 

         2021年7月19日 石谷忠之牧師記

 

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