この数日は、「きけ わだつみのこえ―日本戦没学生の手記―」を読んでいます。
胸にこたえ、読み進むことがむつかしく、それでも引き寄せられるように、若者たちが
遺したことばを辿ることです。
山口県徳山港から船に乗って人間魚雷回天の訓練基地であった大津島を幾度か
訪ねたことがあります。その回天の搭乗員であり訓練中事故により殉職した若者の手記、
シンガポールにて訪れたチャンギー刑務所で戦犯として絞首刑死した若者の手記などなど・・・、
生きることの意味と死ぬることの意味をひとつひとつの手記が個別に率直に、私に語ってくるのです。
1944年6月にフィリピン方面にて行方不明となった25歳の若者の両親宛て書簡より抜粋。
「今の自分は心中必ずしも落着きを得ません。一切が納得が行かず肯定ができないからです。
いやしくも一個の、しかも人格をもった「人間」が、その意思も行為も一切が無視されて、尊重
されることなく、ある一個のわけもわからない他人のちょっとした脳細胞の気まぐれな働きの函数と
なって左右されることほど無意味なことがあるでしょうか。自分はどんな所へ行っても将棋の駒の
ようにはなりたくないと思います。」
あの満州事変に始まる日中戦争、アメリカとの戦争を強引、無謀、無責任にも指導おしすすめた
戦争指導者たちによってどれほどの人間の命が軽んじられ奪われたことか、しかもその指導者たちの
中には戦後を敗戦前と変わりなく生き延びた者もいる。
わたしはあの戦争指導者らを糾弾したくなりましたし、手記のいくつかにもはっきりと書かれてあった、
その指導者を野放しにし抱えこんでいた私たち国民の軽薄さまぬけさに気持ちは重くなるのでした。
そしてその軽薄さまぬけさを今日現在の私たちがすっかり清算し過去のものしたとはとても言えないという
恐怖に近い気持ち・・・。
無謀な戦争のなか食糧が枯渇し、敗戦日のあと8月19日飢死した若者の自画像入りの手記がありました。
2016年8月15日敗戦記念の日 石谷牧師記