先に地上の歩みを終えられた方が私たちに贈ってくださっている宝が二つあります。
一つは、いつまでもあると思うなあの人・この人との交流、語らい、共にする時間、
ということです。
私は7月に、父のような存在であった方を亡くしました。その方が亡くなる前日に部屋を
訪ねて、イエスの言葉とふるまいを伝える箇所を耳元で読み、讃美歌を歌い、今日の心臓の
調子はどうかなと脈を取らせていただきました。確かに数日前に比べると頻脈(ひんみゃく・
心拍数が多い)であり弱い感じがしましたが、明日には亡くなるとは思いもせずにおいとましたのです。
また明日来ますと言ってお別れしたのです。しかし翌日訪ねた時刻には亡くなっておられました。
35年間のその方との交流、私のことを大切に思ってくださった方と今になって初めて知るような
気持ちなのです。
出会いと交流には必ず終りが来る、忘れるなよ。だからこそ、いまここで得ているあの人・この人との
共に過ごす時間を大切にするんだよ。 貴重な宝物を贈っていただきました。
二つ目の宝。それは人間と人間が深く愛ゆたかに出会える「その時」を逃さないようにということ。
私はその時が鈍感にも分からなかったという失敗をして、取り返せないその時の重さ深さを味わうのです。
でもここでは私が「その時」が分かった体験を述べます。
それは実父と過ごした時間のなかで生まれた「その時」を私が味わった体験です。
今から40年ほど前。
父は晩年入退院を繰り返していました。私はすでに社会人となって都会で働いていました。
ある年の暮れに久しぶりに実家に帰省しました、実家への道の途中に父の入院先がありましたので
見舞いました。そしてひとしきり仕事のことや都会での暮らしのことを報告し、父からは病状についての
話があったと思います。和やかな時間でした。
しかし強烈に私の心に残っているのはその後の光景なのです。
父と別れて病院を出てバス停に向かう道を歩もうとして振り返ると、病室のベランダから
私を見ている父の姿がありました。私は手を振りました、父が手を振って返しました。
道を曲がるところでもう一度振り返ると、なお私を見ている父の姿がありました。私は大きく手を振り、
父が手を振って返すのを見ました。これが最後のそして成人してからは最初の「父のこころと交差した時」となりました。
あの時私はどうして振り返ることができたのだろうか・・・ 父はなにをおもい私を見つめてくれたのか・・・
振り返ることができて良かった、ほんとうに良かった・・・。
大きく手を振る私と病室のベランダから手を振る父の姿が一枚の写真のようにして、
私のこころに強烈に刻まれています。
私は地上を歩む父の姿をこの一枚の写真の後見ることはありませんが、
父の私へのおもいを感じながら生きているのです。
2016年8月29日 石谷牧師記