なぜ自分がそうしているのかを考えることなく、気付けばもう40年も行っている
ということがあります。
毎週日曜日の礼拝プログラムの順番がそのひとつです。
まず賛美があって、祈り、聖書朗読、説教、献金と感謝の祈り、そして賛美、最後に祝祷を
することもあります。これって自分が考え付いたというより、これまでに出席した礼拝のプログラムを
そのまま、礼拝というのはこのように行うのだろうと思って、自分も同じようにしているのです。
でも礼拝プログラムにこうでなければならないというものはない、野球やサッカーなどのスポーツの
ようなルールはないのです。各地で、各教会で行われている礼拝の形式、プログラムを尊重する
ことを基本にして、自分たちの必要を実現する礼拝、そのときそのとき自分たちがしたい礼拝を
創作して良いのだと考えるようになりました。
大切なことは何か。それは礼拝をとおして私たちがイエスとつながる、イエスとのつながりを回復する、
礼拝をとおして私たちがとなりびとと出会いそして生きることの苦楽を分かち合う者としてつながる、
生かされている人間同士という本来は備わっていたとなりびととのつながりを回復すること、であると思います。
先日の礼拝では、私の説教が「説教講演会」-一方的に語る牧師がいて、出席する者は
拝聴するというようなインホメーション伝達式―にはならないように、共に聖書のことばに
生活していく上での力添えを聞いていこう、聖書のことばからみなが受けたことを分かち合うとして、
私の説教の途中でも気付きや感想があれば、その時点で出席者がだれでも自由に発言し、
みなで対話する(コミュニケーション)という礼拝をいたしました。嬉しいことにこの日の礼拝出席者は
柔軟に応答してくださり、みなで双方向のやりとりをしながら、聖書からのメッセージを分かち合いました。
また8月6日の礼拝のさんびでは、平和の集いで歌い継がれてきた「青い空は」(青い空は青いままで
子どもらに伝えたい)を歌い核兵器廃絶の願う世界中の人々の祈りに連なることをしました。
このような礼拝も有り、でいいのではないでしょうか。
イエスが「アバ」と呼んだ大いなる方、私たちの捧げる礼拝をどうぞお受けください。
写真は普段は地上から見る原爆ドームです。
ドーム全体がどんな姿であったかをより想像できるようになりましたし、焼け残った建物壁の内側の様子から
原爆衝撃波の凄まじさ改めて知ることになりました。ときには視点を変えてみよう、との実体験となりました。
2017年8月14日(月) 石谷牧師記