菜の花の咲くころになりました。この文章を読んでくださるあなたはいかがお過ごしでしょうか。
世界に日本社会に年明けからいろいろなことが起こっていますが、それだけに愛するこころを失わないで生活を
続けていきたいという願いを持ちます。どうぞお元気に春から初夏の季節をお過ごしください。
同じものを見ていても、見る人間の立ち位置によって、見えてくるものは違ってきます。
たとえば私は原爆ドームを地上に立って見上げることが多いです。四季折々の、時刻によって変化していく空を
背景にしてドームは、風雪に耐えながらいばらのかんむりをかぶっている人のようにして、平和を作っていこうという
促しを私に語りかけてきます。
ところが昨年二回ほど、原爆ドームに近いところにある、折りづるタワービルの最上階展望所から
ドームを見ましたが、そこからは原爆によって破壊されたドームの全体像が想像され、また散乱している基礎石や
レンガを見おろし眺めることで原爆の破壊力を感じたことでしたが、平和作りを語りかけてくるようなドームでは
ありませんでした。
ナザレ人イエスの生涯とそれゆえの帰結であった十字架刑による結末というひとつのことが、イエスと交流した
そのころ一人前の人間とは扱われていなかった者に与えた影響は、それなりにユダヤ教徒として暮していた、
ペテロははじめとするイエスの弟子、イエスの弟ヤコブ、さらにはパウロらが受けた影響とは違うように思われます。
一人前ではなかった者はイエスから語りかけられ、皆から汚れているとされた手を握ってもらい、一緒にパンを食べ
杯を交わし気持ちよく酔い笑い興じ語らうなかで、じんわりとこのイエスの前では自分は存在しても良いのだという
自己肯定の喜びを受けたことでしょう。
そして存在そのものへの肯定を必要としている人間はいつの時代にもおり、現在もそうでしょう。
私自身は自分のいたらなさを痛感しイエスからの、倫理的に道徳的に欠けばかりの自分への赦しの声を聞いて
いますが、このごろは、あなたはあなたの弱さを抱えたままで一個の人間として、生きる現場を持つ社会的な人間
として、生きていきなさいとの声が発せられているのだ、と知るようになってきました。この声は私だけに向けられて
いるのではなく、すべての人に語りかけられていると分かってきました。
イースター礼拝説教では、私は、教会のなかまに向かい、ひとりひとりの歩みにふさわしく備えられている救いの
恵みに支えられて、私たちは同時代の隣人、これから生まれてくる隣人たちを愛する者に
―愛することは自分の時間・たまもの・持っているものを分かち合うこと―なろうと語りました。
私たちはイエスのことばとふるまい、十字架と復活について心の内にしめされてきましたが、そのしめされた
なかみは、各人違っていることだろうと思います。なぜならば、私たちひとりひとりのイエスと出会う立ち位置が
違っているからです。
私たちにはそれぞれに生きている場、状況、必要としていることがこれまでにありましたし、これからもそれぞれ
にあることでしょう。そこにイエスがことばとしてふるまいとして、私の思い及ぶことのできない関わりをされること
でしょう。各人それぞれの歩みに貴重なイエスとの出会いの喜びと、生きるために与えられる励ましがあるのだ
と思います。
そんな私たちが同じイエスによって、イエスの弟子の道を歩むことに招かれています。
それが隣人を愛する者になること、具体的には自分とじぶんのもつものを分かち合うことではないかと私はしめされて
います。
2018年4月14日 石谷牧師記