2018年5月20日(主日)
教会が生まれたことを記念するペンテコステ(聖霊降臨記念)礼拝説教要旨
「聖霊は私たちアデルフォイとともにあり」
私たちは、イエスと、彼がアバと呼んだ方―聖書では神とされています―のことを考え
言葉に出すことは多いですが、それに比べて聖霊については考えること、話題にする
ことは少ないのではないでしょうか。そもそも聖霊なるものが存在するのか、
あなたはどう思っていますか。
イエスが存在したことはユダヤとローマの歴史的文献から間違いないのです。しかし
アバ・神、そして聖霊の存在は、私たちが見る・可視、触れる・可触できるようには
認めることができません。私は人間には、感じることでその存在・実在が分かると
いうことがあると思うのですが、アバと聖霊はまさに感じることで分かる実在するものと
思います。たとえばそれはおふくろの味から広がっていく、母の自分への愛の認識ように、
美味しいひと皿の料理の背後に母の愛を感じる。感じることでその実在が分かるもの。
愛だけではなく、善意、情熱、人柄の温かさ、ひたむきさなども同じようではないでしょうか。
さて、その聖霊。私は自分たちの現在までの歩みを振り返り、私たちがいくつかの
局面を潜り抜けて信仰をなお温め続けていることを思うとき、局面をなんとか抜けていく
ことができるような自分たちに変わることができたなと感じるのです。いな、変わることが
できたのではなく、事態は「変えられてきた」というほうがふさわしいのです。
そしてこの変えられてきた自分たちを思うときに、私は聖霊の存在を、働きを感じるのです。
聖霊の働きとは、私たちに大切なことが保たれ深められるように私たちを変えつつ導く
ということではないか。
5月20日ペンテコステ礼拝では、次のようなことを語らせていただきました。
1.私たちが変えられてきたのは、三つのスピリットを保ちこれを深め、自ら生きて喜び、
そして次の方々へ繋いでいくためです。
その三つのスピリットとは
(1)ナザレのイエスの生涯に、イエスが示すアバ・神と訳される方、の人間への恵みと赦しと
招きという愛が込められている。私たちはこの愛を受けて、自分もイエスのように生活して
いきたいとの思いで、一日一生歩み出していこう。
(2)私たちは自分の持っている時間、できることなどを、同時代のとなりびとの平和と
尊厳に用いられるように、次の時代のとなりびとのことも覚えながら、となりびとと分かち合う。
(3)ひとりひとりが「個人」として大切にされ尊重され、その個性、関心、可能性を存分に
その人なりに生きていくことができるように私たちは応援する。
2.自ら変わることができたのではなくて、三つのスピリットに生きることができるように、
ペンテコステの主人公である「聖霊」によって私たちは変えられてきたのではないか。
私の理解をもっと率直に言えば、私たちが現在もなお三つのスピリットを保ち生活して
いることで、ふだんはあまり意識ののぼらせない、聖霊なるものが私たちとともにあることが
分かるということです。
このように考える理由がふたつあります。第一には、使徒行伝2章は聖霊によって
ペテロらイエスの弟子たちが何を語るようになったか、どんな共同体を作るようになった
かが記されています。その内容が、私たちアデルフォイにまさに見られること・大切に
しようとしていることなのです。
聖霊がペテロらの集い・教会を作ったということならば、
アデルフォイもまた聖霊の作った教会だ、と私は考えるのです。
第二には、三つのスピリットを実際に生きていくことは、昔も現在もけっして容易な
ことではありません。
(1)福音書を読むとき、イエスの語っていることはいいなあと感じます。アバ・神の恵みに
眼を開かれて安んじて生きる、そしてアバを信じ自分を愛し自分を愛するように隣人を
愛していく。けれど本当に、各人各様の生が交錯する自分の生活の場で、さらには冨の
あくなき追求ゆえに続く人間尊厳破壊の現実を抱える日本社会、耐えることのない
暴力・武力の応酬の世界の中で、生かされている喜びを誰とでも分かち合うとした
ナザレのイエスを少しでも生きてみようとするならば、また、この生き方を1年、10年、
20年、30年と保ち、深め、次の方へ繋いでいきたいという希望を持つことは、これは
もう私たちだけのちからでできたこと、できることではないと思うのです。むつかしいと
感じる現実の中で、スピリットをなお温め豊かにしていけるように、私たちに必要な
助けなり促しがあって、私たちがめげないように、ますますナザレのイエスを生きたい
との思いを持てるように、私たちが変えられてきた。私はこのように自分たちの歩みを
振り返るのです。
(2)自分のものを分かち合うのではなく、自分は獲得したいのです。人からの善意、
愛情、助言、奉仕、法による保障。自分だけの時間、健康、知識、知恵、お金、友達、
家庭、家族、仕事・・・。自分の持っているものは占有し、せいぜい自分と自分の気に
入る者たち、自分にとって利益になる者たちに分けたい。
『サル化する人間社会(山極寿一)』という本が、分け合うことをしなくなることへの
警告をしていますが、教会の昼食のように食べものを持ち寄って分け合ってみなで
食べることに象徴されるような「分け合う」生き方を私たちが続ける・貫く、少なくとも
姿勢はこちらに向け続ける、ことをこれからもできるとしたら、私たちの中にそうする
ことを喜ぶ気持ちが絶えないからでしょう。この喜びを聖霊が備えてくれる、
と私は自分たちの歩みを振り返るのです。
(3)現状、しばしば、個人ではなく、女よりも男、子どもよりも大人、妻よりも夫、
部下よりも上司、地域・学校・集団・組織・全体の利益や論理、いったん決めたこと
などが優先されてしまうことがあるのではないでしょうか。
怖いのは国家―時の権力・為政者の思想信条価値観が法制化されてーが私たちの
個人の人権の領域に入ってくることです。このさまざまレベルで、自分が当事者に
なって、自分の「個人であること」、となり人の「個人であること」を侵すことをしては
ならない尊厳として尊重し守る、これを相当に意識しておかないと、
とんでもない自分、社会となります、足元をすくわれます。
この三つのスピリットを携え歩む、あなたと私、そしてアデルフォイは私たちだけで
作ることができたものではないと私は思うのです。それゆえに私は言います、
私たちともに聖霊在り、聖霊のささえはこれからも続く、感謝。