9月22日から24日までの三日間、各地に住む友らと宮崎県小林市にある
霧島キリスト教兄弟団礼拝堂に集い、「いま自分が遺すことば」をテーマにして
語り合いました。集まった20名ほどの友らがこれまで生きてきたなかで、
「このこと」を自分は大切なこと伝えたいと思うようになった、「このこと」を語り合ったことでした。
私の集いに参加しての感想は次のようです。
私はこのセミナーに参加して、集まったひとりひとりが、そこに集うた方々から「個人」として
大切されながら、安心して座り、語り合い、聞き合い、内面にあった思いが引き出され、
新しい思いが生まれ、ある時には沈黙していることでなにごとかを表現し、そのようにして語らいが
進むなかで、実に豊かな交流が展開していくという醍醐味を味わうことができました。
私のセミナー参加の目的のひとつは、集まったみなさんがこれまで生きてきたなかで、
人間にとって大切なことは「これだ」と思うようになられた、「これだ」を聞かせていただくことでした。
私の「これだ」については、開会礼拝説教において話させていただきました。
≪自分の体験と見聞から、となりびとが他の人間から本気で個人として大切にされることによって、
かつ生きることで生じる喜怒哀楽を分かち合う友と場を持っていることによって、その方は心身ともに
健やかに生活し、幼子であれば目覚ましく成長し、高齢者であれば平安である。
だから、私たちが周りのとなりびとを個人として大切にし、その方が持つつながりのひとつになることで、
その方が健やかに生きること、喜び生きることを応援できる―ましてや私たちはイエスによる赦しを
受けている者、そしてとなり人のとなり人になりなさいと、イエスが先にいまし・またともにいまして、
招かれている者―。となりびとの生きることを応援することは私たちにいつでもできることです。≫
私がひとしきり話させていただいたあとで、今度は参加者が三つのグループに分かれて
私の説教への感想、自分がこれまで生きてきたなかで人間にとって大切なことは「これだ」と
思うようになった、という語り合いが始まりました。そしてこの語り合いがそののちどのように
進行展開していったか。みなさんの発言されたことは、実に具体的、ひごろの生活の
実践を踏まえての、各人各様の内容でした。
私はその言葉を私の友であるみなさんの「のこす言葉」として記録しました。
参加者のお一人は、教師生活のなかで得た教え子たちとの出会いと交流は貴重である、
一度しかない人生をお互いせいいっぱい生きようと教え子たちと話していると語られました。
またある方からは、悲しみと不安の体験を重ねながら祈り続けた中で得た言葉を聞かせて
いただきました。私の心は集われたみなさんから出てくる言葉に感動していました。
その方の語る言葉と生きるご様子が一体になっていると強く感じたのです。
まさにその方と、その方にしか語れない言葉に出会うという醍醐味です。
さらに私は、自分が語っている言葉について再考する機会を得ました。
たとえばこの文章でも使った「個人」という言葉に次のような意味を加えることができました。
「私たちは生きているけれど、すでに死を宿している―しかしその死をひとりで迎える
のではない。かならず支える友がいる、慈しむ方がいます。
―そして自分はいかに生きるのかという宗教的問いにこたえようとして、
それぞれの道を私たちは生きている。
これが私の“個人”である。私たちはみなこのように生きる個人である。」
私に本セミナー開会説教の準備はあっても、そのあとの、結びに至るまでの
きっちりとした筋書きはありませんでした。落ち着くところ・結びについて考えている
ことはありましたが、どうしてもという結びではないゆるやかなもの。
そんなふうに始まった私にとってのセミナーでしたが、終ってみると、集まった友らの
それぞれに大切にしている今現在の「のこす言葉」を、
その方のたたずまい、ご様子を見ることで、その語られた言葉を聞くことで、知ることのできた
セミナーになりました。これを今回のセミナーの「醍醐味」と言わずしてなんと言いましょうか。
2018年10月29日 石谷牧師記