深紅面目22 「イースター(復活日)記念礼拝説教」

 4月12日のイースター礼拝説教の要旨を掲載します。

 

 4月12日は世界中の人々が新型コロナウイルス(以下コロナ)への防疫に努めているなかでの

イースター礼拝となりました。コロナの影響に対する人間のよわさとそなえの足りなさを感じるなかで、

ひとりのいのちをたすけんとして懸命に働く医療従事者たち、これを食事、防護服、手紙や絵、

お金を送って応援する人々の影像に眼がしらが熱くなりました。

 私たちの教会ではイースター礼拝を教会創立40周年記念礼拝と位置付け、

説教者には神戸メノナイト教会からNさんをお迎えする予定でした。しかし日本国内で感染者の

増加が止まらない状況を踏まえ、今は何よりも自分と隣人・社会の感染防止に努めることとし、

イースター礼拝への出席は各自の状況の中で主体的に判断して決めること、

Nさんを招いて行う教会創立40周年記念礼拝は5月24日に延期することにいたしました。

その結果みなさんは賢明な判断をされて、イースター礼拝への出席は私を含めて2名でした。

この礼拝で私がみなさんと分かち合いたいと準備したことは次のようです。

 

テキスト:マルコによる福音書16章1節~8節

マルコ福音書(以下マルコ)が書かれた時は紀元後70年台、その時はこの福音書しかありませんでした。

読者はこの唯一の福音書を1章から読み進めていきます。

そうそう私たちはすでにマタイもルカもヨハネ福音書も知っているのでマルコにはない内容が

頭に入っています。たとえば、山上の説教、たくさんのたとえ、復活して弟子と語らうイエス、

弟子たちへの大宣教命令などなど。そのような私たちですが今朝はマルコしか知らない読者になった積りで

聞いてくださいね。

 さて、読者は1章から読み進めていきます。そこにはイエスの大活躍、面目躍如、人を引き付けて止まない姿。

紙面に余裕なしですので、私の心を深く捕え続けている言葉だけでも紹介します。

・イエスは罪人や徴税人と食事をしている~ マルコ2:16

・安息日は人間のためにできたのであって~ マルコ2:27

・神の意思を行う者、その者こそ私の兄弟~ マルコ3:35

・お前たちは神の掟をなおざりにして人間たちの~ マルコ7:8

・こどもたちを両腕に抱きかかえたあと~ マルコ10:16

 ところが読者は13章くらいまでくると、イエスに不安になります。このままいけばある人々の反感、

敵意は頂点に達し彼らは暴力装置を持っているので、イエスは殺害されるのではないか、

そしてイエスに従う弟子たちも同様に迫害を受けるようになるのではないか。

実は最初のマルコの読者たちはユダヤ教主流派から迫害や差別を受けているグループであった

ようなので、弟子たちの前途に自分を重ねて読み進めざるを得ない、

なんともつらい重い気持ちでの読みに変わっていたと私には想像されます。

 そして14章、15章ではその危惧がまさに的中し、イエスは最も残忍な処刑方法である十字架に

つけられ死刑殺害される。そして男弟子たちは保身のために逃げていく。

ナザレのイエス集団のみるも無残な結末。

それでも在りし日のイエスに生きることの喜びと希望を感じている読者は、エルサレム神殿と律法を

中心にしたユダヤ民族階層の上部にいる権力者らの手に掛かって殺害されたイエスを、

手厚く葬ろうとする女弟子に自分の在り方を自分の真心を重ねてイエスが納められた墓の

ところまで行きます。そして女弟子たちとともに、若者の次の言葉に出会います。

「十字架につけられたナザレのイエスは起こされた、ここにはいない。

むしろ行って、彼の弟子たちとペテロに言え『彼はあなたたちより先にガリラヤへ行く。

そこでこそ、あなたたちは彼に出会うだろう』。

 

 そのとき女弟子たちはどうしたか、あなたならどうするか。

女弟子たちは怖くなって逃げていきました、

そして誰にも見たこと聞いたあの言葉を告げることもなかったと結んでマルコは終ります。

女弟子たちが尻切れトンボ・蜘蛛の子散らすように逃げ去ったあとに、

この言葉だけが残ったままです。

 私はこの言葉は著者であるマルコが若者に託して語った実体験だと思います。

この言葉を聞き流して終れば本当にこのマルコの読書はこれで終りです。

あなたも聞き流して終りますか、それともそのことばに従い行動しますか。

 

 私はイエスに会いたいという気持ちになりました。

言葉によればガリラヤに行けばイエスに会えるというのです。

ガリラヤとはどこか。そうだイエスがそうであったように私の日常生活の場か。

そうではあっても、まずはイエスの生活の場に行ってみよう、

もう一度最初からこの福音書を読むことを通じて、イエスの生きたガリラヤに自分の身を置いてみよう。

こう考えて再読を始めていきなり1章1節に驚愕。

「イエス・キリスト(ナザレのイエスがすでにキリスト・たすけ主であり生きる上でのよりどころとされています)

の福音の根源、その福音の根底に在って貫いているもの(石谷の意訳)」を

これから語っていくという冒頭の宣言。

 そして改めてさきほど紹介した言葉の場面、イエスと取税人や当時罪人と蔑まれた人々との

食事他の場面から私が読み取ったのは、

キリストであるイエスとイエスをキリストとしたアバ神が一番大切にしようとしている次のことが

明らかにされているということ。

・たすけを必要としているいのちをなんとしてもたすける。

・わけても小さい弱いいのちを大切に守る。

このいのちを大切にする姿がマルコ全編を貫いて語られている。

そうです、健やかないのちを作りそして守ることを最優先にする人は幸い、

その現場にインマヌエル神がともに働かれるのです。

しかしこの姿に反感と敵意が襲いかかるという人間社会の現実がある。

ゆえにイエスは殺されたけれど、この姿はイエスがよりどころとしたアバ父なる神も同じであり、

だからこそアバなる神はイエスの生涯への肯定として、

十字架につけられたナザレのイエスを起こしたのです。

イエス・キリストとアバの姿はマルコの現在にも、私の現在にも貫かれている。

 マルコの読者よ、あなたはどうするか。自分の日常生活の場・ガリラヤでいのちをたすける、

たすけを必要としている小さないのちを守ることを続けたナザレのイエス・キリストと

彼を起こされたアバ神に倣って、自分はいまここでどういう行動をすれば良いかを考えて取り組め。

これを一番にして生きれば良いのではないか。

私が受けた励ましです。

 

                    2020年4月17日  石谷牧師記

 

 

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