教会のみなさんに読んでいただいている「アデルフォイからの風」の53信を
紹介させていただきます。この号は、私がこの秋に礼拝説教にて集うみなさんと
分かち合いたいなと思っていることを書きました。
『アデルフォイからの風』 第53信
アデルフォイの菜園にレモンの苗木を植えました
≪ことしの秋の礼拝説教にてみなさんと分かち合いたいこと≫
私は現在進行中のコロナ禍のことで、現在私たちが直面している「新しい酒」に
ついて知ることから始まり、その新しい酒を入れる「新しい革袋(新しい生き方・生きる姿勢)」
について考えています。私は、経済的繁栄のみを追い求める、そのことによる労働力の
収奪・地球自然環境からの収奪の在り方を反省しようという意見に賛同しています。
そして自分なりの行動を模索しています。ウイルスの生存する場を経済的利益の対象としか
見ないで、ウイルスと人間の間の「さかい」を破壊することを、
そしてその影響を生死の危機として被る、弱い立場に強いられ置かれている人間たちの
ひとりとして批判していきたいと思います。私は「分かち合う行動」をキーワードにしています。
[人間は、ナザレのイエスと彼がお父さんと呼び掛けるアバにどこまでゆるされているのか]
【A:新しい革袋について考えるなかで、私自身を含めて経済的繁栄のみを追い求めてきた
人間たちは、ナザレのイエスと彼がお父さんと呼び掛けるアバにどこまで
ゆるされている存在なのだろうかという問いが浮かんできました。】
みなさんはどう思われますか。
そこで私がこれまで、読む意欲が出てこなかった文書を含めて、新約聖書27文書
それぞれは、「ナザレのイエス」のバプテスマのヨハネのもとでの体験から始まって
十字架刑死までの歩みを、どのように受けとめて自分の福音として語っているか、
という視点で27文書を読むことに目下取り組んでいます。各文書の著者たちが、
どのようにゆるされて信仰生活を歩んでいるかをうかがい知るためです。
【A】の問いへの示唆が与えられるのではと考えたのです。
私はこれまで読む意欲を持てなかった文書については
1.イエスがガリラヤで何をしていたかへの関心はない
2.イエスの十字架刑死は、神が著者である人間との関係を回復するために備えた、
神とその人間のための、人間側にある神との関係回復を成しえない原因となっている
神へのもろもろの罪・罪、を帳消しにする・贖う(あがなう)、神自らご自分のために備えた、
神に捧げられた子羊としての死
3.しかもイエスはこのことを自覚して十字架にのぼられた、としている
と私は読んで自分の信仰上の感動とは違うなと考えて、積極的には読まない傾向にありました。
自分の心に訴えてくる4福音書とパウロ直筆書簡を読むことに集中してきました。
しかし、私が読む意欲を持てないとする文書を、1.2.3と読むことが的を射ているのかどうか。
だから虚心坦懐あらためて再読していこうと思っている次第です。
そして目下の読みのなかで、どうもこんな自分の傾向のみでは、ナザレのイエスとアバのゆるし、
を生きることにはなっていないな、と感じています。理由は
○たったひとりであるイエスが、多様に描かれている27文書が、ひとまとまりのイエスへの信仰告白書
として新約聖書となって人々を励まし読み継がれて私の手元にあるという歴史的事実
○パウロの手紙には、パウロにとって手強い人物たちが、律法とりわけ割礼を迫って登場してくる、
日常の生活をイエスに倣ってどう歩むかという大事なことを軽視しつつ登場してくる。
しかしそれでもパウロを含めてみんなみんな存在している・存在できている、という事実、などなどなど、
の事実の前になにやら「新しい革袋」につながってくることを感じているのです。
≪たとえばガラテアの信徒への手紙から≫
パウロとペテロとイエスの弟ヤコブはイエス十字架刑死をどのように受けとめて信仰生活を
歩んでいるのでしょうか
イエスの弟ヤコブ:ユダヤ教イエス派(ナザレ派)の指導者として律法と神殿を重んじている。
イエスは、ユダヤの民のために神自らが備えた贖罪の子羊である。
イエスは神の意思を受けた神の子、
ヤコブらユダヤの民のために、十字架刑死という姿で、ヤコブらユダヤの民に代わって、
彼らの神に対する罪・罪を贖うため、自らを神に捧げてくださった。
ペテロ:イエスの十字架刑死に至る生涯をとおして、神は、律法を守れるか守れないでいるかを
問わないで自分たちを受け入れ・ゆるしている、としめされる。
(神によるペテロのたましいにおけるイエスの復活)。
さらにのちには、神の受け入れ・ゆるしはユダヤ人を越えて異邦人に及ぶとしめされるが、
割礼を経ない者にゆるしは及ばないとするイエスの弟ヤコブのながれを組む信徒たちを前に、
神の救いを受けるに資格は必要なしの行動はぶれる。
パウロ:木にかけられて死ぬ人間は神に呪われていると信じていた、しかしいまや
神は十字架上で刑死するイエスとともにいる。イエスの生涯すべては、
神の人間に対する新しい姿勢、それは無条件のゆるしとまねきという愛(アガペー)。
そしてその愛・アガペーは、イエスとそしてイエスと共に在る神を殺害しようとする
人間への行為までにも及び、
いまやこの人間の姿勢・存在を無条件のゆるしのうちにおおっている。
このように私は三者の立ち位置を読んでいるのですが、大切なことは三者がそれぞれに
神に用いられているという事実です。神の人間の在り方・行動へのゆるしは広く豊かで
計り知れないものだと知ります。
そしてこのゆるしを受けてどう行動するか、ひとりひとりに問われています。
これは【A】の問いへの示唆です。
(2020年10月18日 石谷忠之牧師記)