児玉光雄さんの死が新聞に報じられた。
2020年10月28日水曜日、児玉光雄さんは88年間の地上の歩みを終えられた。
私は2012年より、児玉さんから彼の被爆体験講話を伝承する者として
目を掛けていただいた。 私は伝承講話をこの10月までに50回・722人の方に
させていただいた。
しかし、51回からは、もう児玉さんは地上にて同じ空気を吸うて生きる者としては
おられないのだ。
同じ時を生きる者ではない方のことを語る、
私は51回目の未体験の伝承講話を前にして落ち着かない。
児玉光雄さんは、12歳中学校1年生の時に爆心地から876mの地点、
木造校舎教室の中で被爆した。
受けた被爆線量4.6シーベルト(ミリにすれば4600ミリシーベルト)、半致死量の線量である。
そしてその日から原爆症と向い合う日々が始まり、2020年10月28日に、、、終った。
75年という歳月、児玉さんはさまざまな症状に苦しめられた。下痢、皮膚のおでき、食欲不振、虚弱、
被爆後48年経った1993年からは、直腸がん、胃がん、甲状腺がん、皮膚がん、これらそれぞれの
臓器で発症するがん手術は20回を越え、そして2017年には正常な血液細胞が作られなくなる難病
骨髄異形性症候群(MDS)、そして最後は腎臓がん、、、。
放射線被爆が人体に与える影響の恐ろしさを伝えてください、人間の健康を損なう被爆をなくしたいのです、
私は最大の被爆の惨禍をもたらす原爆核兵器を廃絶したいのです。
私はそのために生かされてきたのです。
あの日の教室にいた広島一中1年6組の少年たちの最後のひとりとなっていた児玉光雄さん、
ふりしぼるようなその声が聞こえる。
私は言葉を作れない。
一発の広島に投下された原爆によって、児玉さんはその生涯を決定づけられてしまったのか、
そして原爆は彼を75年間も、よるべない、なにか解決していない動揺のなかに置いたのか。
いやいや、児玉光雄さんは級友少年たちによって立ち上がらされて、
核兵器廃絶に向かって情熱を傾けていたのだ。
児玉さんは自分の生涯を自らの手で作り上げたのだ。
2020年11月7日(土) 石谷忠之牧師記