今年も礼拝堂にアガパンサスの花が咲きました
読者のみなさんへ
いつもお読みくださりありがとうございます。ある日の礼拝説教を掲載します。
「私とabba・アバ(おとうちゃん)」
聖書箇所:ガラテヤ書4章1節~7節
お願い:実際に聖書箇所を開いて、ゆっくりと読んでいただければ幸いです。
「おとったん、こわーい!」
井上ひさし原作『父と暮せば』のなかの、冒頭のことばです。
「おとったん」ということばから、娘の美津江と父・竹造のあいだにある信頼と愛情の
交流が伝わってきます。この竹造との関係があるからこそ、それがささえとなり、
ちからとなって、被爆者である美津江は、生き残ってしまったという心のきずを
抱えながら、新たな人生の旅立ちを始めることができるのです。
「おとったん」と、まさに全くの同質の感情を乗せて、イエスが口に上らせたであろう
とされているのが、「abba」(アバ)です。abbaとは、「おとうちゃん」とでも訳せる、
子どもが父親に対して呼び掛ける、当時のユダヤ人が日常的に使用したアラム語の
言葉です。
そしてユダヤ教徒であるイエスの直弟子たちにとって、信仰の対象であるヤハウェを
abba・おとうちゃんと呼ぶことは、信仰の覚醒たる衝撃であったのでしょう、
イエスの教えの重要なことになったのでしょう。集い、教会のなかで言い伝えられるべき宝、
みなで共有する喜ばしい福音になったことでしょう。だから、十字架以前のイエスを
知らないパウロにも、しっかりとこのabbaは伝えられています。
パウロは紀元54年頃に執筆したガラテヤ書4:6、紀元55~56年頃に執筆した
ローマ書8:15でabbaを、地中海世界・ヘレニズムの共通言語ギリシャ語で訳すると
pateru父の意味、を付記して読み手に紹介しています。
パウロいわく私たちにはこ、の方のこどもとして、abbaと呼べる霊が与えられている、と。
いったいイエスはどんな状況のなかで、abbaと言っていたのか。弟子としては、
第二世代か第三世代なるマルコは、イエスの直弟子たちが伝えたであろうabbaを、
マルコ福音書14章36節で紹介しています。イエスがゲッセマネでこのabbaを使って
祈っています。なぜイエスは、神の名前である固有名詞ヤハウェでなく、普通名詞で
神の意味のエロヒームでもなく、abbaを使ったのでしょうか。それは、イエスにとって
自分が信じている存在と自分との関係は、親密なる親子の関係だったから
なのではないでしょうか。その強い結びつきをエロヒームでは、そしてヤハウェでも、
言い尽くせなかったのではないでしょうか。
捕縛され殺害される恐怖の状況下、「abbaおとったん・・・!」、イエスが切実なる
気持ちを託した呼び掛けです。そしてこの関係があったからこそ、イエスは祈りから
立ち上がっていったのです。
ところが、ペテロやパウロらのあとの、第二世代、第三世代の弟子たちは、
このabbaを気にいらなかったようです。マルコ(紀元70年代)までは、
abbaにpateru・父よ、が付記されていますが、
マタイとルカ(両福音書とも紀元80年代執筆)はなんと、abbaを削除し、
pateruのみにしています。イエスに由来すると思われる伝承が、早々に消えていく、
なんともったいない残念なことでしょうか(マタイ26:39節,ルカ22:42節)。
新約聖書の他の文書にabbaはありません。
なぜ、このようなことが起きてくるのでしょうか。私のこれまでの見聞から考えるに、
ユダヤ教徒ではない異邦人(私たち日本人も含む)に対して、イエスのことを
伝えようとするときに、あまりにユダヤの地にしかないローカルに過ぎること、
あまりにユダヤ教過ぎることは封じ込めて、むしろ、どんな人間にとっても、
どの地域であっても、通用する、標準語的、普通名詞的なことが
大事にされていくのではないか。また、キリスト教はユダヤ教とは違います、
と主張していくならば、いかにもユダヤ教の香りが残ることがらや言葉は
使われなくなるのではないか。私のこれからの研究課題のひとつです。
イスラエル・ユダヤの一言語であるアラム語のabbaは、キリスト教会第二世代、
第三世代のころ、キリスト教会の宣教のことばが作られる過程で消えたのです。
私自身は、このごろは、自分が信じている方―あの十字架上のイエスとともにいて、
イエスの歩んだ道こそわが意志として、人間を憎むのではなく、むしろ最後まで苦しみと
悲しみのうちに、イエスとともに人間の拒みを受けとめ赦した方―に祈るときに、
イエスに倣って、「abba」と自分の祈りを始めています。
そして実感していること。それは、abbaとの関係だけではなくて、
私と私の周りの‐人間を含む‐いのちとの間に、生きて在ることの喜びを交流できる関係がある
ことの可能性です。この関係があることで、私たちは健やかに、自発的に主体的に、
一人一人の生活において、忍耐し自分を省み、ひるまないで希望を燃やし、
何度でも立ち上がっていけるのではないでしょうか。「関係」が問題を解決する
わけではありません、「関係」は問題を解決していくために力を発揮します。
願わくは、私たちが、家庭、教会、人たちと作る社会で、そのような関係を
産み出せますように。
さて、みなさん、イエスのabbaには、全幅の信頼と、私はあなたに愛されて
おり平安です、という信仰が込められています。
あなたもイエスに倣ってabbaと呼び掛け祈ってみませんか。
2021年7月19日 石谷忠之牧師記