「アバ、自分で考えて行動する私たちと この行動を用いてください」
私のルカ聖書の読み方について書きます。読者のみなさんを惑わせるためにではなく、
ナザレのイエスのこころざし(イエスのこころざしと生涯はアバの意思そして喜び)を、
私たち一人ひとりが、自分が考え決めた行動で生きることができるんですよとお伝えしたいのです。
私は若いころには先輩、親、尊敬する人を模範にしてあるいは助言を得て生活することがありましたが、
この年齢になり、模範にさせていただいた方の多くは地上の歩みを終えられており、
かつ自分の現在の生活の状況をあれこれと考えると、自分の行動は自分で決めていくしかありません。
みなさんは、ご自分の行動をどんな風に決めておられるでしょうか。
と書きましたが、若いころに模範にした、助言を得た、とはいっても、どなたを模範にするか、
どなたから助言を得るか、という段階から始まって、
実は若いころも(幼少期と少年期は違います)、自分の行動は自分で検討し決断してきたのだと思います。
自分の行動は自分で決めることを、ルカもしていました。私はこのことをルカ福音書10章25~37節、
善きサマリア人のたとえと呼ばれている箇所から読み取りました、感動しました、
そして自分の行動は自分が決めて良いのだと励まされ促されました。
ルカは、信仰、国籍や民族や性や身分や年齢などを越えて、人間と人間は困っている時には助け合う、
助けを必要としている者には自分のできることをすることが、自分の信じている神の望んでいることである。
言い換えると、神は私たちに “隣人愛”を持つように願っている、と同じ信仰の仲間や周りの人間に伝えたいと
願ったのでした。その理由としては、ルカの周辺に自分の隣人の範囲を自分の都合を優先して
狭く小さく決めようとする傾向があって、それはイエスの弟子の姿勢ではないとルカは考えたのではないか。
そしてこの自分の思いを福音書の中でどう書き読む者に伝えるかを考えたのです。そしてルカは、イエスに関する
ふたつの伝承を採用して独自の物語を作ることを決断したのではないか。「アバ、自分で考えて行動する私を、
私のつくる物語を用いてください」と祈りつつ。
そう読めるのが、善きサマリア人の箇所です。伝承は「イエスが教える黄金律」とイエスが語った
「ひん死のユダヤ人をサマリア人が助けるたとえ」です。
「ひとつ目の物語」
ルカは(マタイ福音書も同様)、マルコ福音書を参考にして、これに彼の独自資料とイエスの語録を
集めた資料をかたわらに置いて、そしてなによりルカの主体性と自由を存分に発揮して、
自分の福音書を仕上げました。
私は善きサマリア人のたとえの導入部に、彼の独自性を感じます。ベースになっているのは
マルコ福音書12章28節から34節であり、読むとこうなっています。律法学者が律法のなかで
最も大切なことは何ですかとイエスに問うと、イエスはいわゆる黄金律と私たちが言う、
思いを尽くしてヤハウエを愛すること、自分を愛するようにとなり人を愛すること、と答えるのです。
それを聞いて律法学者は納得同感します。マタイはほとんどこのエピソードを自分の福音書に
コピーしています(22章34節~40節)。 ところがルカはこのエピソードを彼独自の物語の
挿入部に使って、サマリア人のたとえにつなげています。
次のような物語が生まれています。
1.律法学者がイエスに問います。永遠のいのちを受け継ぐために何をすれば良いか。
2.イエスが問います。あなたはどう思うか。
3.律法学者が、いわゆる黄金律を守ることと答えます。
4.イエスが納得同感そのようにすれば良いと回答します。
5.律法学者が、今度は、それでは隣人とは誰かと問う。
6.これを受けて、イエスがいわゆるサマリア人のたとえを語ります。 というような展開です。
なんと、イエスが言ったとされている黄金律を、ルカは律法学者に言わせているのです。
そしてさらに律法学者に「隣人とは誰か」と問わせ、これを受けてイエスがたとえを用いて隣人愛を
説明していくというふたつ目の物語が作られているのです。
「ふたつ目の物語」
イエスのたとえそのものは30節から35節まで、ルカはその両端に「隣人」という言葉を置いて
たとえを挟み込むのです。この挟み込みによって、たとえは隣人を説明するたとえとして
読まれるようになります。
たとえの部分だけを読んでの私の感想は、およそそのような恵みを受けるにはふさわしくない、
資格がないと思われる人間への無条件の救い、破格の恵みが語られているということ。
放蕩息子やぶどう園の労働者のたとえにも共通する、私たちの意表を突くどんでん返しの結末、
すべての人間は尊厳を持つ大切な存在、置き去りにされてはならない、
喜び生きるように招かれている存在なのだというアバの愛です。
このたとえを隣人愛の説明に用いたルカは大胆なことをしていると思います。
さらにこの物語の冒頭の、
律法学者のイエスへの問い、「永遠のいのちを受け継ぐために何をすれば良いか」、と
結語の、イエスの告げる「行ってあなたも同じようにせと」の間に物語があることによって、
永遠の命を得るために、救われるために、行為、行動、業績が必要である、というふうにも
なりかねないことになってしまいます。このことを、
イエスの無条件、資格無しの救いの宣言を安価なものにしてはならないという、
ルカからの警鐘として受け止めて、やはり、救いはまず、無条件の恵みと赦しと招きによって生まれる、
を確かめたい。
そしてルカを参考にして私はこう考えます。私たちは自分の生活の場でイエスのメッセージに
生きたい、他の人と分かち合いたいとの願いを実現しようとして、自分の把握している
イエスの思い・メッセージを、自分なりに想像しふくらませて独自の行動をしますが、
それは間違ったことではないのです。なぜなら、自分の生活の場は、イエスの生活の場と
大きく重なっていますが、違っている点も大いにあるからです。私たちが自分の生きる状況の中で
イエスを生きようとするならば、いまここで自分はどういう行動をしたらよいかを考え、
祈りつつ思い巡らし、最終的には自分の主体性と自由と責任で決断し行動していくしかないのでないか
。その際には完璧などありません、失敗、的外れ、いま一歩及ばない、などなどやぶれと欠けは尽きません。
しかし、そういうわたしたちとともにイエスあり、ルカとともにイエスありと私は信じます。
以上は私のルカ福音書についての読みです。
「アバ、自分で考えて行動する私たちとこの行動を用いてください」と祈ります。
以上
2022年6月26日 石谷牧師記