「イエスの平和を生きよう、作ろう」
2022年が始まって7ヶ月が過ぎました。この間、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が
起こりいまだ停戦になるような状況ではなく、国内では元総理が銃で撃たれて死亡し、
原因となった背景には市民として且ついち宗教者としても関心を持たずにはおれないし、
コロナ禍は2年半年も私たちの生活に影響を与え続けており、これまた終息の見通しなし、
というような状況です。このような現実状況の中にイエスがおられたらいったいどんな平和作り
をされるのでしょうか。
と問われても、即座には答えが見つからない私です。けれども、福音書のなかでイエスは
出会う人たちにどう接していますかという問いには、出会いの物語を思い出しながら
答えることができます。イエスはいまここでも、平和作りというよりかは、出会う人とどのような出会いを
するかに心を傾けるのではないか、そしてこのことがイエスの作る平和ではないか、
と考えて私は以下を語ります。
たとえば、イエスはこどもたちにどう接しているか。
成人した大人のイエスは、こどもを愛(め)でてますね、
それも無条件に可愛がる大人のイエスです。こどもたちがイエスに近づくのを止めようとした
弟子たちを叱りつけ、こどもを引き寄せ抱き寄せ、その頭(こうべ)に手を置いて
祝福する(按手する)イエスでした。こどもに対しては、こどもであるというだけで、
破格の扱いをするイエスです、あれこれと理由などないのです。こどもたちは無条件の愛を
必要としていることを、意識しないで、体現します。イエスは私たち成人した者にも同じことを
期待していると私は思うのですが、みなさんはどう思われますか。
(マルコ10章13節以下)
というわけですから、もしも私たちがイエスのように生きてみたいと思うのであれば、
身近にいるこどもたちから始めて、世界中のこどもたちを大切にしていくことです。
今の現実は、日本でも世界の各地においても、ひもじさ、思う存分に学校に通って勉強できない、
児童労働にしているなど、苦労をしているこどもたちがいます。私たちは自分のできるこどもを
大切にする行動を、先ずは身近にいるこどもに、それから少しずつ広げて始めていきましょう。
こどもは庇護され扶養され育てられていくことが必要です、そしてやがて私たちと同じ
大人になる人格、存在です。こどもを大切にすることは私たちの、イエスの平和作りになると思います。
そして振り返り感謝します。実は私(たち)こそが、むかし大切に育てられたこどもだったのです。
さて、イエスは女性にはどう接しているでしょうか。
私は福音書の中から、イエスと女性の出会いの物語の数々を読み直してみたのですが、
こどもとの出会いに見られるような、女性だからということで特別に大切にするイエス、
というような物語はないように思いました。イエスが男性に出会う物語との差異がないのです。
(マルコ5章21節以下、マルコ5章25節以下、マルコ7章24節以下、ルカ7章36節以下、
ヨハネ8章1節以下、ヨハネ11章17節以下など)
しかし、このことが実は衝撃なのでした。イエスの生きたユダヤの地でも、現在の日本でも、
男ではなく、女ということだけで背負うにつらい重しを負う女性たちがおります。
性の所属を強いられて辛い思いをする人がいます。
そういう中で、イエスには、男性と女性の間に分け隔てがないのです。イエスと同じ成人した
おとな同士なのです。このことを広げていくと、同胞のユダヤ人を義人と罪人とに分け隔てする
イエスではないのです、さらに、ユダヤ人とローマ人をことさらに区別していく
傾向を持つイエスでもないように私は考えるのです。成人した人間同士として、女も男もなく、
性の枠を越えて、義人とか罪人とかの視点で同胞を見ることを越えて、国籍を越えて、ひとりの人間、
となり人として見ていくイエス、と言えるのではないでしょうか。
そしてその根拠は「父は悪人たちの上にも善人たちの上にも彼の太陽を上らせ、
義なる者たちの上にも不義なる者たちの上にも雨を降らせて下さるからである(マタイ5章45節)」
というイエスのアバの人間に対する姿勢です。アバは人間を分け隔てることをしないのです。
というわけですから、もしも私たちがイエスのように生きてみたいと思うのであれば、
私たちも、性別、行いの様子、宗教、国籍による分け隔てをしないことを、
身近にいる人から始めて、出会う人に接していこうではありませんか。
このことは私たちの、イエスの平和作りだと思います。
私がいま述べていることは、すぐには日本社会の平和と世界の平和を作りだすことには
ならないでしょう。すぐには軍事侵攻・紛争を止めること、暴力行為を止めることには
ならないでしょう。でも、はちどりの一滴、平和を産み出す善き土壌作り、平和文化作りです。
人間を分け隔てしないことが当たり前のようになる、そこまでいかなくてもそのような姿勢で
生きようとする人が一定程度になったら、何か善きことが起こるかもしれません。
長い長い道でしょうが、歩き始めれば目的地は近付くのです。
そうは言っても、この二つは、言うは易く行いは難しです、そのとおりです。完璧はありません。
そもそも完璧な結果というのは私たちには作れないのではないでしょうか、大事なことは、
続けていくということです。私たちは、自分の生活の場でイエスの平和を生きてみたいな、
イエスの平和を作ってみたいな、というあこがれを持っています。
こどもを大切にする行動と人を分け隔てしない行動を少しでも重ねましょう。
私はこのことがイエスの平和を生きていることだし、イエスの平和を作っていることなのだと考えています。
2022年8月7日 石谷牧師記