ナザレ人イエスとわたし

[ナザレ人イエスとわたし]

♪日に日に世界が悪くなる 気のせいか そうじゃない そんなじゃダメだと焦ったり 生活しなきゃと座ったり♬というNHK連続ドラマ「ばけばけ」のテーマソングを歌うのが私の楽しみになっています。それは、このフレーズに共感しており、自分の感じている世界を、歌って笑って、そして、♬落ち込まないで 諦めないで 君のとなり歩くから♪と、全ての人の安心と生きる喜びを求めるあなたと私を取り戻したい、から、かなあ、などとひとりで勝手に思っています。

  私は福音書を読むなかで、イエスは実にこまやかに丁寧に出会う一人ひとりを見つめている、接していると気づくようになりました。肉眼と心の眼の両方で、出会う目の前の人間の正面に立つナザレのイエスの姿です。決して裁くのではない、むしろ世の中に唯一無二の人間、大切であり、かけがえのない存在として、その人間を見つめるイエスです。そうです、一人の人間がイエスに出会う時と場には、いつでもイエスの側からの無条件の「愛」と「赦し」と「招き」が充満し満ち溢れ、喜びの笑顔が生まれてくるのです。 

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さて、上のステンドグラスに注目してください。このステンドグラスは、広島市幟町に所在する、広島平和記念聖堂のステンドグラスです。左の人間には、なぜイエスを鞭打つのですか、あなたはどう思いますか。私はあなたとこの問いを共有して語り合いたいです。

 この人間は、イエスのどんな点が気に入らず受け入れ難く、無視できるのではなくて暴力をふるって鞭打つ憎々しいイエス、となったのでしょうか。

 私たちが福音書に読み取るイエスは、立場の弱くされている人間ひとりひとりを丁寧に見つめ接し、その人間の生きる喜びを実現しようと奮闘し、だからこそ立場の弱い人間を放置し否この人たちを作りその存在の上にあぐらをかいている者たちに抗議を続けた、そういういわば二方面の行動・生き方をしようとした、ナザレ人イエスです。それゆえの、鞭打たれうなだれ両手を縛られたイエスの姿を、私とあなたはしっかり見ようではありませんか。

 なぜ私たちはこんな姿になってしまっているイエスを自分の生きる目当てのようにして慕っているのでしょうか。私はあなたとこの二番目の問いを共有して語り合いたいです。

 私は、みなさんとそして一人になって、福音書を読むなかで、いつのころからか、イエスが実にこまやかに丁寧に見つめている、接しようとしている人間には、私とあなたがちゃんと入っていると信じるようになりました、不思議なことなのですが、、、。そしてそう信じて生活すると、こころとからだが健やかで、隣人と温かく和んで、生きる喜びを共に求めていける心持になりました。イエスの愛が始まりで、イエスの愛の姿をなぞりたく私は生活しています。

 そして、さらには、イエスの言動は、わがこころ、わが意志、だよと、語りかけ続けている、イエスがアバ(おとうさん)と呼んでいる、方のいますことを、私もイエスと同じように信じて生きてみよう、という気持ちなっています、「底抜けのインマヌエル」に生きてみようというわけです。

 もう一度、ステンドグラスを見つめてみましょう。イエスは背後からむち打たれています。イエスの時代に引き続くその時代と変わらぬ現在の日本社会です、イエスと同じように、二方面の人間に心を配り生活しようとするならば、しんどい困難な現実は有り、そして続くことでしょうね、、、、。もうここらで私とあなたはこの生活を終わりにしますか。いいえ、私たちは知りました、イエスは愛のまなざしで立場の弱くされている人間を見つめている、なんとかせねばならんね、よしこれをやってみよう、と。たとえば、貧困の中にいるこども、からだとこころを自分の思うようには動かすことができない人、故郷を追われた人、男性か女性かの範疇におれと強制されて悲しんでいる人、まだまだ言い尽くせぬ現に存在している人間をイエスは見つめている。

 すべての人間が、生きる喜びに満ち満ち、尊厳を十分に認められて生活できる私たちの社会が、はなはだ良い、ということを私たちはイエスから教えられ、生活者の実感としても知るようになったのではないですか。さあ、全ての人が安心しており、喜んで笑顔であるそんな私たちの世界を作りましょう、私たちに生きることの基本の姿勢を教えてくれている、現実においては今もなお鞭打たれてうなだれ両手を縛られているナザレのイエスをこころに覚えています。落ち込まないで 諦めないで 君のとなり歩くから      以上

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