周りの者が安心している、笑顔になることを、自分の自由の
使い方として選んだ人に出会うことは感動です。人間ですもの、
あやまりも思い及ばぬことも至らないことも抱え続ける私たちで
あることでしょう、が、生活の基本姿勢、時間の使い方に、
周りの者の安心を作ることを据えた人が、この世にはいるのです。
私には、この人は、イエスの姿、イエスが語った神の像と重なり
ます。7月に「この人」との出会いがありました。この方の家族に
美しい笑顔がありました。
聖書にはこの選びへの応援話がたくさんがあります。
ルカによる福音書15章に、放蕩息子のたとえとして
知られるイエスが神の姿を語ったお話があります。
それによると。
父は、次男の申出を受けとめ、財産を分けてやります。
次男は、遠い国に旅立ち、その財産を好き勝手に
使い果たした後、父のもとに戻っていきます。
父は戻ってくる次男がまだ遠くにいるのに見てとり、
いそいで自ら走っていき出迎えます。
父親にとって、次男が「良い」とか「悪い」とか、
「正しい」とか「間違っているとか」ではなく、次男が
「生きて在る」ことが何よりも大切で、そのために自分が
いま、ここで、できることをしようとするのです。
長男はこの父の姿に腹を立てます。
生きて在ることが何よりも大切ならば、人間は何をしても、
生きて在るなら、赦されるのか。そうではないはすだ、
真面目に働き、欲望を抑え、決まっていることは守る、
そういう歩みをすることが大切なのではないのか。
長男はこのように主張します、そして父に文句を言いたて、
弟を憎みます。
父は長男のところにかけつけ、ねんごろに自分が次男を迎えた
心境を語りかけます。
この父のできることはそれです、次男と長男の心に語りかけ、
その父が認めている二人の「自由」の使い方に示唆を与える。
次男と長男がそののちどうなったかは、イエスにはありません。
兄弟に自由が与えられ続け、たとえを聞く者たち、後世に
伝えられた話を読む私たちの自由に委ねられている、という
ことでしょう。
ただし、はっきりしています。イエスはおのが自由を、
周りの者が安心していること、生きる喜びを感じて笑顔でいることに
使われたのです。
自由が、人間同士の殺し合いに使われてきた歴史と、いまなお
その現実が繰り広げられていて、わたしたちはおののいています。
しかし、こころ落ち込むときには思い起こしましょう、
自由を他の人たちの生きて在ることのために使おうとする人々が
世界中に起こされ続けていることを。
7月、私はイエスの証し人に出会いました。
(2014年7月30日 石谷牧師記)