礼拝堂アデルフォイのそばに咲いた蝋梅(ろうばい)の小さな花です。
思わず香りを確かめたく近づきました。寒さはまだしばらく続きますが、
春の気配は感じられます。読者のみなさまの身近なところでも同じで
しょうか。
「シャルリーエブト」事件をどう考えればいいのか。
イスラム教徒が大切にしているムハンマド(マホメット)の「風刺画・記事」に
ついて見ていない読んでいないのですが、そして暴力でもってそれに
対する抗議、不満を表明することにも、もちろん反対する私ですが、
「風刺画・記事」がイスラム教徒にとっては暴力行為になるのではないか、
という気持ちになるのです。
自分がして欲しくないことは相手にもしない。
キリスト教徒、イスラム教徒、仏教徒、信仰を持たない者、世界に
さまざま信仰を持つ者がいます。その人々が平和を分かち合い享受して
いくために大切なことは何でしょうか。
イエスを自分のキリストと感じているキリスト信者にとって、もしも、
執拗に不快な表現でイエスを風刺する画や記事が発行されれば、
その意図は何かと、マスコミと社会に不安を感じることでしょう。
信仰、考えの違う者たち、自分とはまったく異なる信条を持つ者たちで
作り合っているのがこの社会、世界、人の世です。
少数者と多数者という関係もあります。
大切なことは、ひとりひとりが、
自分にして欲しくないことは相手にもしない、ことを大切にして、
その上で「表現の自由」「出版の自由」を駆使して、
この世界に生きる者、同じ人間たちの平和を作り出すことはないでしょうか。
暴力による抗議を否定しつつ、このたびの「シャルリーエブト」事件を
考える私です。みなさまはどう思われるでしょうか。
2015年1月14日 石谷牧師記