1月のメッセージ(要約) 永遠のいのち―自由を受けとめ直すー

 私たちのいのちを二通りに活かすことができるのではないでしょうか。

一つは動物と変わらないいのちとしてです。衣食住を確保しこれに支えられ、

自己実現の欲望・願望にちからを注ぐ私たちです。

もうひとつのいのちは、他の人間の幸いが実現されるために、自分は

何ができるだろうかと考える、そして自分のできることに取り組むいのち

です。自分と他の者との間に平和と和解を作り出そうとするいのちです。

 私たちのいのち、このふたつの活かし方のバランスはどうでしょうか。

たやすいことではありませんが、目指すは後者の活かし方も「わが内に在り」

といきたいものですね。わたしはこのふたつのバランスが良いいのちが

新約聖書に出てくる「永遠のいのち」ではないかと考えています。

そして現実の生活のなかで「永遠のいのち」をしなやかにさわやかに生きる

ことでは、自分の「自由」を受けとめ直すことが深く関わっていると思います。

どうぞ聞いてください。

 

 永遠のいのちとはどういういのちかを語るのに、たとえば

スケアクロウという映画にこんな場面がありました。

寒風の中、ヒッチハイクの車にどちらが先にありつくかと競争

している二人の男。

大柄な方が煙草に火をつけたいのにマッチがありません、そのとき、

小柄な男がマッチをすって煙草に火をつけてやります。

マッチ箱の中の最後の一本をごく自然に使って。

 

 永遠のいのちは死んでから獲得するようなものではありません。

現在、こうして生活しているただなかで永遠のいのちを生きることができます。

自分も生きるが彼も彼女も生きてもらおう、と願いそれを実行するいのちが

永遠のいのち、なのではないでしょうか。

隣人を大切にするのが永遠のいのちです。

 だから、寒風の中の二人は、まず小柄な男から、自分のいのちを

永遠のいのちへと受けとめ直し、それからもうひとりの男がそのいのちを

分かち合ったのです。

ありがとう、そして、ほほえみ。

それから二人の悲しみと喜びを共感する旅が始まります。

 

 このたびの「シャルリーエブド」事件。

わたしにとって、享受している「自由」について考えることに

なっています。

 

 私たちは良識としても、イエスの教え、パウロの勧めからも

知っていることがあります。それは、「自由」は、自分が自由を

駆使することで、もしも誰かの身体や心を傷つけるようならば、

その自由を使ってはならないということです。

自分の言動が、相手にはどう受け止められる、受け止められたか、

が自分の主張・釈明より大事なのです。

 

 パウロによってイエスをキリストとする信仰に導かれたコリント教会の

メンバーは自分たちに備えられている自由に目覚めました。

人間にはイエスを殺し神を呪う自由が与えられている、そしてそのように

人間は振舞っている、が、そのような人間が赦されているという驚くべき福音。

人間とは何者か、驚くべき恵みの充満に生かされて在る人間、

この福音に目覚めて人はコリント教会を作りました。

 神の恵みわれにあり、私たちはゆるされているという真実に生かされよう。

ところが、ある者は何を食べてもいい、どんな食べ方をしてもいい、

と仲間を待たずに食べ始め、仲間が食べれない食材をこれ見よがしに

食べる始末。このありさま、他人事ではないでしょう、備えられている

自由の使い方が未熟なのです、幼稚なのです。

 

 歴史を省み、人間の世になぜ戦争は尽きないのでしょうか。

私たち人間はどうしたら平和を作れるのでしょうか。

信仰、思想、信条、生活習慣から始まって個性に至るまで、

同じ人間はいないのです。そうした異なるものを持ち合わせて、

人間が集まっているのが家庭、教会、社会、国、地球なのです。

自分の尊厳・利益を大切にするだけではなく、自分とは異なる

隣人の尊厳を具体的に護っていくことが平和を作ることなのです。

戦争の歴史が私たちに教えていることです。

 

 自由を、自分の思いを実現するために使うと同時に、

他者の幸いを実現するために使うのが、

戦争の歴史をいやというほど知る人間ではありませんか。

この点で私たちは歴史に学び大人にならねばと思うのです。

他者にとっては好ましいことでなければ、あえて自由を行使しない。

争いの種は蒔かないのです。

 

 私たち人間は「自由」を使うまえに、

「愛」「隣人への愛」に踏みとどまることだと私は教えられます。

パウロはそのように諭しました。そしてその原点はイエスの生涯、

その究極の最後のエルサレムの日々です。

自分を殺そうとする者に助命嘆願の工作をするか、

あるいは逃亡するか、私ならそんな選択もありかと思ってしまう危機です。

もしあなたが追い込まれた状況にいるその人イエスならどうしますか。

神を呪うことのできる自由を与えられている人間イエスは、

でも神から離れることなく、なぜわたしを見捨てられますかと神に祈り、

わたしのおもいではなくあなたのおもいがこの身になりますようにと

祈ったと記されています。

神のおもいとは、イエスにとっては、いと小さき、弱い、神さえ呪う人間、を

たいせつにする、眼をかける、抱き寄せる、愛でした。

この神の愛をおもうて慕って、イエスは自分の「自由」を受けとめ直していく

ことを最後まで貫いたのです。

私たちもこれに倣いたいのです。

自分も生きるが、隣人はなおさら生きるように、とのおもい・意思を持つ人間が

作る国はまさに神の国です。神の国を、どこか遠くにあるものではなく、

私たちが今、現在、ここに作るのです。

 

 『麦の種が地に落ちて死なないなら、それは一粒のままで残る。

だが、もしも死ぬなら、多くの実を結ぶ。自分の命に愛着する者は、

それを滅ぼし、この世で自分の命を憎む者は、

それを永遠の生命にまで護ることとなる。』

ヨハネによる福音書12章24節・25節(岩波訳)

 私は一粒の麦のままでいいと決め込めば、この現実のもと私の

周りの悲しむ人、寂しい人、生活に苦労する人の状況は変わらない。

自分の自由にのみ愛着するのではなく、むしろそれを離れ、

他の者を活かそうとするなら、あなたは永遠のいのちを生きる、

そればかりか、その他の者も永遠のいのちを共に生きるとの招きが

聞こえてきます。

 ご一緒に自分たちの自由の受けとめ直しに踏み出しましょう。

私たちの自由は自分の尊厳だけではなく、

隣人の尊厳を護ろうとする自由でありたいのです。

私たちの自由は隣人への「愛」によって生まれる自由でありたい。

 

           2015年1月15日   石谷牧師記

 

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