3月のメッセージ(要約) 「分け合うことは幸せです」

 もしあなたが、現在(いま)

 「あなたは自分のしていることが分かっていない」と誰かに向って言えるならば、

誰に対して言いたいですか。

そのときの、あなたにとって、その人が分かるべきこと、なすべきことは何でしょうか。

あなたにはそう言う理由と願いがあることでしょう。

 

 さて、イエスの語ったことばにも「あなたは自分のしていることが分かっていない」が

あります、今日はこれを参考にして私たちの分かると良いこと、行うと良いことを分かち

合いたいと思います。

 

 イエスはこのことばを弟子であるヤコブとヨハネに向かって言っています。

ヤコブとヨハネは兄弟です、イエスに直談判のようにして自分たちを

イエスの右の座と左の座、つまりはイエスの次に権力を持つ者にして欲しいと

願い出たのです。(マルコによる福音書10章35節~45節)

 マタイ福音書では、この場面に兄弟の母が加わって、母親が願い出たように

なっています。母は強し、母が息子たちの名誉と権力を願い出たというわけです。

 一方これを知った残りの弟子たちは猛烈に憤慨します。自分たちを出し抜いて、

師であるイエスに地位、権力について直談判するとは・・・。

 

 イエスはまずヤコブとヨハネの兄弟に対して

「あなたたちは何を願っているのかわかっていない」と語り、

(でもこのことばは兄弟だけではなく他の弟子たちにも語りかけられていると思います)

そして、弟子全員を集めて、世の支配者は力(ちから)を使って支配しているが、

あなたたちは仕える者になれ、しもべとなれと諭すのでした。

 

 弟子たちは集団・組織の中で少しでも高い強い地位を実は求めていたのです、

権力欲とでもいうものが巣くっているのです、マタイが母親を登場させているのには、

この権力欲には男も女もないという示唆があるように読み取れます。(マルコ9:34)

権力欲、言い変えれば力(ちから)を持つことに信頼を置く生き方が、

ある歳月をイエスと共にいても、弟子たちの中に強く強くあるのです。

 

 この力(ちから)に信頼を置く生き方、在り方は私たちにもありますね。

 私は最近大人たちが集まって心からやすらぐ雰囲気を体験しました。

それはおさな子を囲んだときのことでした。大人たちが小さな子を愛(め)でる

こころで共感して楽しいなごやかでおだやかな雰囲気なのです。

男も女もなく、なにをしているかも関係ない、ある者が力でその場を

牛耳るということもない、ただおさな子をかわいいと感じ愛でるこころで

作られた雰囲気です。ちからとはほど遠い者を一番にする、ちからの支配のない

世界、イエスの指し示す神の国はこのようかと感じることです。

(マルコ福音書9章36節以下)

 

 ところがこのような力の支配の対極に生まれる雰囲気を感じるのは

残念ながら、そして将来が不安なのですが、まれなことです。

私たちにもある力に信頼を置く生き方は、たちどころに、

私たちを力にしか信を置けない生き方に押しやります。

そして自分が健康、学歴、経済的豊かさ、地位、名誉、欲望を満たすことを

得たいと思うなら、それを増やしたい保持したいと思うなら、そのために

力を持つことを追求し、その力を行使するようになります。

 豊かさがひとつなら、それを獲得するために他の者より抜きん出ようと激しく競争し、

邪魔する者、足手まといになる者は、取り除くのです。所有するものを増やすためには

自分よりも豊かに持つ者からだけではなく、少ししか持たない者からも奪い取るのです。

自分の利益にならない者と決めればそんな者には関心を持たないのです、

生活のレベル分けを勝手に作り出し、貧しい者の存在は、その存在すら視野に

入ってこないのです。

私は極端でしょうか、この世にはないことを言っているでしょうか、

いいえ、現在この世界でいまなお続いている現実ではないでしょうか。

 

 イエスは弟子たちに、仕える者となれ、しもべとなれと願いました。

仕えるということ、しもべとなるということは、わたしたちには具体的にはどのようなこと

でしょうか。

 私は自分の育った家庭の食卓を思います。父と母と私たち四人の子ども、

合わせて6人で囲んだ食卓、それは分け合って食べ合うことを続けた食卓でした。

父が家族を威圧してまず自分の食欲を満たすということは一度もありませんでした、

母はみなに公平に電気釜からごはんを分け、お鍋から味噌汁を分けました。

食べるものを家族で分け合って生活したことで、私は体と心、情操を大きく成長させる

ことができたように思います、感謝しています。

 

 私はこのごろ、仕える、しもべとなるということを、善きものをみなで分け合うようにすると

言い換えてもよいと思っています。分け合うことには、愛があります、いたわりがあります、

時には奉仕があり、また時には犠牲を引き受けることがあります。分け合うことは、

力(ちから)ではなく愛によって生まれ、愛に信を置くことであり、愛が鍛えられ、

そうすることで愛が他の人間を動かし、愛の交流が生まれていくのです。

 

 私たちに示されている、わたしたちが分かると良いこと、行うと良いことは、

権力・ちからを求めるのではなく、仕えること・しもべとなること、それは、

善きものをみなで分け合おうということではないでしょうか。

 教育、医療を受ける機会を地球上のすべての子どもたちが分け合う世界、

生存に必要な食べ物と新鮮な水を地球上のすべての人々が分け合う世界を

望みて、私たち自らがまず善きものをみなで分け合う者になりましょう。

 

 そうです、現在(いま)私たちは分け合うことができていないのです。

ちから、武力にものいわせて一部の者たちが善きものを独占ししているのが

この世界の現実であります。善きものを獲得しようとして紛争が起こります、

これが国家間でしたら強い武力を持つ国が、武力による威嚇又は行使により、

国際紛争を解決しようとします。かつてわたしたちの国では、政府の行為に

よって戦争の惨禍が起きた、という痛切な歴史があります。

私たちは武力で国際紛争を解決しようとして、しかし失敗、誤りを続ける

国に従うことしてはならないと思います。私たち国民の運命を武力に頼る

国に預けることは危険です、そうではなくて、隣国、アジアの国々、世界の

国々の人々と善きものを分け合うようにするのです。

  私たちがイエスから教えられること、そして戦争の歴史から教えられることは、

人間は、力ではない、武力ではない、分け合うことで幸福を得ることができる

ということです。

 

 私たちがこれから「あなたは自分のしていることが分かっていない」と誰かに向って

言う時には、今日教えられたことを参考にしようではありませんか。

 

                   2015年3月10日   石谷牧師記

 

 

 

 

 

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