種と地のたとえについて

 マルコ福音書4章3節から9節のたとえを読みながら考えました。

私にとって種はあの敗戦の体験とそのあとの70年の日本社会の歩み。

現在(いま)この種が蒔かれています。

 

 あの敗戦の体験。

敗戦で痛切に感じたこと、戦争はいけない。ちからで自分の利益を追求しても

憎しみと争いが生まれ人間の死が引き起こされるだけだ。政府、政治、軍の指導者は

必ずしも国民本位には動かなかった。

 

 この体験の種が国民に蒔かれて70年、種はどうなったのでしょうか。

たとえには種が育たない、道端、石地、茨の中がでてきます。

私はこのごろの、敗戦という体験が私も含めてまだまだ国民生活のなかに活かされていない、

と感じるようになりました。たとえば70年をこう言っても少しは言い得ているのではないでしょうか。

 

 経済的な繁栄、お金持ちになるために持てるものを総動員して資源と安価な労働力を求め、

作ったものを売りつけて利益を獲得してきた。その結果は、一部の者はぜいたくに暮らし、

多くの者は貧困に苦しむ世界と日本社会の現実。

 70年間、とにもかくにも親米路線、かつ国民主権ではなく国民統制国家主義に向かって

歩んだ政治と政府。親米である限り米国政府は日本政府と日本の政治家を手離さない、

米国政府を後ろ盾にすることを選んだ政治家は安泰、長期政権はいまだに続いている。

 少しのぜいたくとすこしの貯金ができた者は、敗戦の体験から教えられたことを

忘れた、子どもに伝えることもしない、歴史から学ぶことを放棄、思考停止。政府のしてくれる

ことに間違いなしと安全神話に浸りきる。

 

 私はあの敗戦という種は日本社会にいまだ十分成長しているとはいえないと思います。

だからこれからのことです。 現在、種は蒔かれようとしています、もう一度。

種はあの敗戦の体験とこの70年間の私たちの日本社会の体験、ふたつがひとつとなった

種です。

 この種を育てたいのです。

このままでは私たち国民は危ういと感じてます。武力で自国の利益を追求してきた米国との

同盟を強固にするだけで良いのか。私たちは自分はどんな生活をおくりたいのか、そして

明治以降、日本がしてきた戦争によって国民生活はどうなったのか、一人一人がまじめに

考えて考えたことを社会生活の中に反映させていく努力をしなければと考えるのです。

 

 地には種が育っていく良い地もあるとのこと。

これが希望です。

70年経ったこれからのときは、種が大きく成長して実を結びますように、

まずあなたと私良い地にしてくださいと求めましょう、

良い地が起こされることに用いてくださいと求めましょう。

 

                   2015年3月31日  石谷牧師記

 

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