イースター礼拝メッセージ(要約) 「ガリラヤ」の豊かな意味

 マルコ福音書14章26節~28節。

 イエスの弟子たちは強くないのです。イエスの側近中の側近として右と左に

置いて欲しいと直談判したヤコブ・ヨハネ兄弟、イエスからリダーとして認められた

ペテロをはじめとして、全員がイエスが捕えられる場から逃げていったのです。

 私たちはどうでしょうか。自分が不利益を被るかもしれない、関われば今までの

ようには生活できなくなる、面倒なことに巻き込まれるのはごめんだ、と思ったことからは、

逃げる、避ける、離れる、関わらない。私は中学生のころ意地悪な眼つきをした者たちに

取り囲まれていたおさななじみをとうまきにしていた者の一人となった自分の姿を忘れたことは

ありません、その時私は涙を流していました。

それから現在まで、イエスの弟子たらんと心に決めてからも、幾度となく私は自分かわいさから、

いくつかの場から逃げてきたのです。

そこにいた人がいます。まだそこにいる人がいます。だから私はできるだけ長く生きて少しは

人たちに喜びと笑顔が生まれることに用いられたいのです。

エデンの園にて禁断の木の実を食べて隠れたアダム、ペテロは私の姿でもあります。

 

 自分を優先することは個人のレベルにとどまらないように思います。

日本国は戦争相手国であった米国、軍事力で紛争を解決できるとする米国の同盟国となる

選択をしました。ロシア、中国から国を守れるとますます同盟に深入りしていこうとしている。

しかしこの選択はアジアに緊張と不信を増す危うい選択なのではないかと私は不安なのです。

日本国の利益のために、どこから離れどこに身を置くか。

自分が大切な人間とそのような人間の集まった政治の選択は同質になるのです。

 

 でもそれでいいのか。それだけでいいのか。そのようにみなが生きることで何が起こるか。

 

 逃亡してしまった弟子たち。イエスを裏切ってしまった自分の姿に激しく泣いたペテロ。

この弟子たちがふたたびイエスの弟子たらんと行動を起こします。何が弟子たちに起きたのか、

それが弟子たちにおけるイエスの復活です。

 みなさんは「復活」をどう思っていますか。

 

 イエスは自分を捨てるであろう弟子たちに、

「ガリラヤに先に行っているぞ、後から来なさい、ガリラヤで会おう」と語りかけます。

 弟子たちは「ガリラヤで会おう」と自分に向かって言ったイエスを思います。

「ガリラヤ」は自分のふるさと、生活の場。そこに生きる者たちの中には、喜びと笑いがある、

一方で差別、さげすみ、疎外、病気、仲間はずれ、自分をいちばん大事にする人間たちが作る

人の世。そこでイエスは「迷い出た一匹の羊を探す羊飼い」「放蕩に崩れた息子が無事に戻って

来たのを喜ぶ父親」「短時間しか働かなかった者にも相当の賃金を渡す雇い主」のたとえに、

だれもが大切ないのちとして愛し恵み導こうとする愛の神の姿を込めた。

そして友のいなかったザアカイの客となり食べ飲み語り合った、その食卓は入場自由、病気、

貧困、孤独、自分探し、求道者、それぞれの悩みを抱えた多くの者たちが集まってきた。

そしてみんなが何かを得て、来たときよりも明るくなった、笑う者もいた。ひもじさから腹を満たした者もいた。

 「サマリア人のたとえ」もあった。関わりたくないできごとを避けて生きることでいいのか。人間の生きる場を

そんな考え方、生き方で満たしていいのか。生きる姿勢としては、試みるべきは、それが十分できない

にしても、自分を愛するように隣り人も大切にすることなのではないか、とイエスは願った。

 

 ガリラヤ、イエスが実現しようとしたそのようなガリラヤの人間の生きる場。

そこで会おう、とは、逃亡してしまった自分へのゆるしと一緒に実現しようという招きなのではないか、との

思いが弟子のこころに充満してくる、それは確信になってくる、まるでイエスが直接に自分に語りかけてくる

ようだ。不思議なことですが、弟子たちに生まれたイエスの復活、だったと私は思います。

 そして、私にもイエスのことばとふるまいとが大きな導き励ましとしてわが内に脈打つのです。

私は周りの人たちを大切にしていきたい、そして同じくらいに私たちの日本社会を「愛の文化」と

「自分たちの生きる場をみなにとって幸いな場にしていくのは自分たちであるという文化」で満たしたいと、

このごろ深く切実に思う私はガリラヤのイエスによって生まれたのだ、そんな気持ちになるのです。

 

 あなたにイエスが復活しています。

あなたは自分を大切にしたい、そして家族をはじめとして周りの者を大切にしたいと思っている、

それはイエスのこころでもあります、イエスがガリラヤで一番大事にしていたことです。

人を大切にしたい、この気持ちは「愛」ですね。

 こどものころ遊びほうけて約束した時間に遅れて帰宅した私を、両親は叱るのではなく、心配したよ、

無事に帰って良かったと迎えてくれました。相手の非を責めて自分の気持ちを満足させるのではなく、

無事を喜び合う、これはわたしが両親から学んだことです。この学んだことを自分も同じようにしていきたい

と思うときに両親は私のうちに復活してきます。愛こそがイエスに繋がることです。

 あなたには愛がある。あなたのうちでイエスが復活していると、私は感じています。

 

                 2015年4月13日   石谷牧師記

 

 

 

  • 11897総訪問者数:
  • 2今日の訪問者数: