マルコ、マタイ、ルカの復活物語から私を省みる

 イースターのメッセージを作るなかで、三福音書の最後を読み比べてみました。

その差異に考えること大きいです。

 マタイ福音書では、復活したイエスが、予告していたとおりにガリラヤで弟子たちに会います。

そして弟子たちに語ります。28章18節から20節です。私はいまや天上と地上とのすべての

権能を与えられた、あなた方は行ってあらゆる異邦人を弟子とせよ、バプテスマを授けよ、

私が指示したすべてのことを守るように教えよ、インマヌエル私は世の終りまであなたたちと

共にいる、と。弟子たちは世界宣教へ派遣されます。

 ナザレのイエスはキリストになっています。いつも共にいてくださるキリストです。

すべての人間に伝えられるべきキリスト、受け入れる者はキリストの弟子となる。

 マルコ福音書でもマタイ福音書でも、イエスは弟子たちに、復活したのちガリラヤで

会うと予告していますが、マルコでは弟子たちがガリラヤでイエスに会ったかどうかは

(もともとは)書かれていません。マタイには書かれている、いったいこの差異は何だろうか。

 

 私は自分のことを反省しつつこのように思います。

イエスがガリラヤでなしたこと、それは悩む者に慰めを、励ましを伝え、

つみびと呼ばわりされている者に尊厳を回復することでした。弟子を得ようとしましたが、

それは良き知らせを伝え良きことが実現されるために働き人が必要だったからでした、

そして弟子たちにはあくまで人々に仕えるしもべのようにあれということでした。

良き知らせという福音の内容とその伝え方がガリラヤにはあります。

この原点に帰れ、この原点から始めよう。イエスのガリラヤで会おう、にマルコはこのイエスの願い

を聞きとったのではないか。

 

 マタイの最後の部分がひとりあるきを始めると危ういと感じます。相手本位になって仕える

のではなく、キリストの側に正しさがあり、人はキリストの側、宣教する側に入ってこなければならない、

ということになってしまう、危うさです。マタイとマタイの仲間はそのように考えていたのかもしれません。

 

 さきほど自分のことを反省しつつ、と書きました。これは私がしばしば、イエスの弟子でありたい、

と口に出すからです。自分に対して言うならまだしも、このことばを誰かの前で言うのは良くない、と

感じたからです。イエスはけっしてガリラヤで弟子を求めて活動したわけではなかった、相手の必要、

相手の尊厳、相手が明るい朗らかな自己肯定を持つように働いた、ここに徹した。この点が色あせる

ようなことを人の前で語らない方が良い、そういう私の反省です。

 

 マタイには、注意していないと、宣教とか教会を絶対化し相手に強制していくようになる危うさの種が

あると思います。

 ルカ福音書ではどうでしょうか。24章46節から48節を読むと、復活したイエスが弟子たちとガリラヤで会う

ことがなくなっています。イエスは弟子たちに語ります。エルサレムから始めて、キリストの名において

罪の赦しにいたる改心がもろもろの国民に宣べ伝えられる、あなたたちはその証人となる、と。

私たちは自分が愛に欠けていることをよく分かってきました。赦されていることに感謝し赦しに応えていきたい

と思っています。ルカにあるとおり私たちは証人です。

 しかし気をつけねばならないことは、イエスはまず第一に人に悔い改めることを求めたのか。

ガリラヤでナザレのイエスは悔い改めを迫るのではなくて、しもべとなり友になろうとした

のではなかったか。ルカには自分の側が正しいと主張していく危うさ、イエスの温かみが消えていく

傾向があると思います。

 

 マルコは自分の周辺の同心の者たちに、マタイなるもの、ルカなるものの出現を感じるようになり、

そうではないのではないか、自分たちのよりどころ、自分たちの目指すところは、イエスのガリラヤに

おいての活動とその帰結としてのエルサレムでの十字架刑死にしめされた姿勢にあるのではないか、

と語っていると私は思います。

 

                     2015年4月16日  石谷牧師記

 

 

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