私の小学校・中学校の通信簿に、受け持ちの先生は「協調性があります」と書いていました。
私はほめられているようでなんとなく誇らしく感じていました。わがままでなく、困らせるような
こともせず「いいお子さん」だったように思います。社会人になっても協調性はわりにある方
だったと思います。
しかしこのごろになって、協調性よりも大切なものがあって、それは孤立を恐れず自分の良心の
声に従い、意見を述べたり、主張をする、行動していくことだと考えるようになってきました。
長いものに巻かれていく自分を相変わらず持っていますが、育てていきたいのは、
一人ひとりの人間の存在を重んじるこころ、その実現の行動を自分らしくできる自分。
イエスの接待に忙しい姉マルタのことは気になるが、今の私はイエスの語ることを聞きたいと足元に
座り込んで耳澄ますマリア(ルカによる福音書10章38節以下)、自分のこころの促しを優先して
父のもとを出て遊びほうけた弟(ルカによる福音書15章11節以下)の体験とその帰還を喜ぶ父。
協調性よりもまずはあなたの内面が深まるように、とのまなざしの中に私たちは存在している
ように思います。
ふたつの物語には、姉のマルタと兄がでてきます。周りからの期待や自分の役割を,
自分で作ってけっこうそれに縛られている二人の姿は私たちの姿でもあるのではないでしょうか。
しかし、あなたも好きなようにやってごらんのまなざしのなかに、このふたりこそ,
そして私たちこそ存在しているのだと思います。
2015年7月29日 石谷牧師記