こころに残るシーンがあります。盗みを犯して服役中の青年が、その青年について
取材を終えた者たちに、良い旅を続けられるようにと笑顔で手を振ってさよならを告げ、
家路を急ぐ人々の中を去っていくのです。青年は刑務所から有給休暇を取得して
両親の待つ実家へと帰省していったのです。ノルウエーの首都オスロでの光景でした。
ノルウエーでは犯罪を犯した人たちの社会復帰を国を挙げて支援しています。刑務所では、
犯罪の内容と犯罪を犯した者を見極めその者に応じて社会復帰がスムーズにできるように
手段を講じます。親元に帰省していった青年は、刑務所職員とともに刑務所と社会を結ぶ定期便
の部門で働き給料と有給休暇を得ていました。私は驚きました。そして思いました。
人間は自分に対する肯定、自分の可能性を信じられているという実感を持ったならば、変わることが
できる、成長することができる、自立していくことができる。そして人はその人らしい新たな行動を
始めていくのだと。
マルコによる福音書14章3節から9節。イエスにナルドの香油を注いだ女性がいました。
この女性とイエスとの出会い、出会ったことによって女性の何が解決したのかについての記述は
ありません。でも想像できます。そばにいた弟子たちによれば香油の値段は男の300日分相当の賃金に
見積もることができたのです。女性のなみなみならぬ切実な深い深いイエスへの理解があって、
いまこのとき、この場で自分のできる、イエスへの最良の行動がナルドの香油をイエスの頭(こうべ)に注ぐこと
だったのでしょう。女性はイエスのことばと振る舞いによって、自分の生きていることを肯定することができ、
自分の尊厳を知ったと私は考えています。
そして、女性は、いま、ここで、自分は何ができるだろうかと考えて行動する者に変わったのだと。
私たちに今年も秋が訪れました。初秋とも新秋(はつあき)と呼ばれているこのごろです。
誰かが愛してくれたならば、人間は必ず新しくなれる。このメッセージをはつあきの季節に分かち合い
たいと思います。
私の口ずさむさんびかです。
「きみがすきだって だれかぼくに いってくれたら ソラ げんきになる」
「きみがだいじって だれかぼくに いってくれたら チョット どきょうがつく」
「きみがすきだよ ともだちだよ イエスさまのこえが きこえてくる」
2015年9月30日 石谷牧師記