子どものころ、走っちゃだめよ、転ぶよ、とよく言われたものですが、これは正解です。
つまずきの石があるから転ぶのではなくて、転んでしまうような私であるから、その石が
つまずきの石になるのですね。
このこととよく似たことですが、日常の人間の関わりのなかで、私たちはよく人間につまずきますし、
人間が引き起こすできことにつまずきます。つまずく原因は私たちの側にある場合もあると思うのですが、
私たちはなかなか自分を省みることができません。
たとえばこのようなことがあります。
私は自分は非暴力を貫くという信条を持っています。争いが起こった場合、人間と人間とのあいだでも、
国と国のあいだでも暴力、武力を使わずに争いを解決したいと思っています。
しかし現実には自分の住む日本国はすでに武力(自衛隊)を備えています。そして現在日本政府は
さらに武力によって国際間の紛争を解決する方向へとその備えを増強することに躍起になっています。
このたび私の友人たちが増強される部分、このたびの安保関連法に対して抗議活動を始めました。
私はその増強する部分・安保関連法に対して抗議することについて考えこんでしまいました。
自分は従来から国が武力を持つことに反対しており、増強の部分のみの抗議をしたら、すでに備えられた
武力を認めることになると考えたからです。
そして痛い思になりました。武力行使によって紛争を解決することはしないという考えの私ですが、
自衛隊を縮小させるためにこれまで私は何もしてこなかった、他の人が見たら私は自衛隊の存在を認めている
ということになるのだ、ということです。いや実際私は自衛隊を認めていたから何もしてこなかったのです。
私は痛い反省のあと、この自分の現実の姿を認めねばならないと思いました。その上で、専守防衛を大きく
変えていくことになる集団的自衛権行使を開く安保関連法に抗議にすることに加わりました。自分の信条と
自分の行動とがひとつとなっていないとの反省によって、友人たちの行動につまずいて動けないのではなく、
私は新しい取り組みをすることができました。
私たちはそれぞれの体験を重ねながら自分なりに信条のようなものを持ちます。その信条に立ち譲れない
ことにはいさぎよくつまずきたいと考えます。しかし、自分の信条よりも重要で優先すべきことと判断したら、
あえて自分を変えたいと思います。いま自分たちは、どんな時を迎えているか、何を優先すべきかを一番にして、
自分の信条は信条としても、いったんは棚に上げる、信条を変えることがあってよいと思います。
10月は自分のなかにあるものと自分がつまずくことの関係について考えさせられたひと月でした。
2015年11月4日 石谷牧師記