11月のメッセージ 「山椒魚は忘れない」

 井伏鱒二の「山椒魚」。山椒魚は自分の体が大きくなりすみかの岩屋から外に

出ることができなくなりました。それはふかい嘆き哀しみとなりました。ある日、蛙が

その岩屋に迷い込んできました、山椒魚は岩屋を自分の頭で塞いで蛙を閉じ込めます。

それは山椒魚の罪ふかい行為でした。2年の歳月が過ぎて、蛙は空腹のなかで絶命寸前。

 

 (蛙)相手は答えた。

「もうだめのようだ。」

よほどしばらくしてから山椒魚はたずねた。

「お前は今どのようなことを考えているようなのだろうか?」

相手はきわめて遠慮がちに答えた。

「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ。」

 

 このことばで短編は終っています。

蛙は山椒魚の嘆きと哀しみを感じ取りました、そして2年山椒魚とともに在りました、

自分を閉じ込めた山椒魚に対する怒りを抱くことなく・・・。

2年の間、山椒魚は孤独から解放されていました、そこに蛙がいたからです。

蛙の境遇を支配できていると考えることで、自分の不運への怒りから逃れる

ことができたのです。

 

 蛙の息づかいが岩屋から消えたあと、山椒魚はどうなったのでしょうか。

 

 「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ。」のことばを、聞き分ける山椒魚で

あってほしい。これは蛙からの最後の贈り物。愛されていること、ゆるされていること、大切に思われている

ことを忘れずに最後の一日まで生きてほしい、という。みなさんはどのように聞き分けるでしょうか。

 

 私たちは、自分の愛されていること、大切にされていることを知らずに、成長を続ける赤ん坊の

ようです。それでしかないのですが、すくなくとも成人した今は、

自分は自分を支えている「愛」を十分に知る者ではないのだ、ということを知っている者でありたいと思います。

 

                 2015年12月6日     石谷牧師記

 

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