井伏鱒二の「山椒魚」。山椒魚は自分の体が大きくなりすみかの岩屋から外に
出ることができなくなりました。それはふかい嘆き哀しみとなりました。ある日、蛙が
その岩屋に迷い込んできました、山椒魚は岩屋を自分の頭で塞いで蛙を閉じ込めます。
それは山椒魚の罪ふかい行為でした。2年の歳月が過ぎて、蛙は空腹のなかで絶命寸前。
(蛙)相手は答えた。
「もうだめのようだ。」
よほどしばらくしてから山椒魚はたずねた。
「お前は今どのようなことを考えているようなのだろうか?」
相手はきわめて遠慮がちに答えた。
「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ。」
このことばで短編は終っています。
蛙は山椒魚の嘆きと哀しみを感じ取りました、そして2年山椒魚とともに在りました、
自分を閉じ込めた山椒魚に対する怒りを抱くことなく・・・。
2年の間、山椒魚は孤独から解放されていました、そこに蛙がいたからです。
蛙の境遇を支配できていると考えることで、自分の不運への怒りから逃れる
ことができたのです。
蛙の息づかいが岩屋から消えたあと、山椒魚はどうなったのでしょうか。
「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ。」のことばを、聞き分ける山椒魚で
あってほしい。これは蛙からの最後の贈り物。愛されていること、ゆるされていること、大切に思われている
ことを忘れずに最後の一日まで生きてほしい、という。みなさんはどのように聞き分けるでしょうか。
私たちは、自分の愛されていること、大切にされていることを知らずに、成長を続ける赤ん坊の
ようです。それでしかないのですが、すくなくとも成人した今は、
自分は自分を支えている「愛」を十分に知る者ではないのだ、ということを知っている者でありたいと思います。
2015年12月6日 石谷牧師記