1月のメッセージ「にんげんさんか」

 寒かった1月が終りました。2月には私たちの体とこころを温かくしてくれる

陽だまり、できごとに多く出会えればいいなと思います。

 1月の礼拝で私は「イエスの人間賛歌」を語りました。

安息日にしても良いこと、してはならないことがある、あなたのやっていることは

してはならないことだ、との指摘をイエスは受けました。そのとき、イエスは

「安息日は人間のためにできたのであって、人間が安息日のためにできたのではない」

と答えました。(マルコ福音書3章27節)

またあるとき、イエスの家族が、宣教するイエスを自宅に引き連れ帰ろうとしてやってきて

イエスに会おうとしたとき、話を聞こうと自分の周りを取り囲んで座ってい者たちを見回して、

「見よ、この人たちが、私の母、私の兄弟たち」と語りました。(マルコ福音書4章34節)

 

 この二つの発言の衝撃、迫力に圧倒されます。イエスが信仰するアッバ父のまなざしの

中で人間ひとりひとりは分けへだてなく尊い、例外はなくみなが神の似姿の人間なのです。

イエスの「人間賛歌」であると思います、人間の尊厳を差し示してます。

 

 1月私たちは心を痛めました。多くの若者が亡くなった大型バス事故、廃棄された食材が転売

されて消費されていた事件、そして誰かを被曝させて稼働する原発の再稼働。その背景にある

ことを丁寧に調べる努力を怠ってはなりませんが、福音書に読むことのできる人間の姿から知らされるのは、

私たち人間は自分たちの都合に合わせて、人間のいのち、尊厳、人間の価値に対する具体的取り組みの

レベルを下げる傾向があるということです。自分たちの都合にはどんなものがあるか、会社、経営者の利益、

すでにその事業は多数の企業と人々の暮らしを支えるものになっている・やめるわけにいかない、・・・

人間の尊厳よりも別のことを優先してしまいがちです。

 

 でも、この人たちが私の母、父、兄弟、姉妹と考えて行動できたらどんなによいでしょうか・・・。

 

  残念な現実です。しかしだからこそイエスの人間賛歌を私たちの生活の場で具体的なかたちにしていきましょう、

人間の尊厳不在の社会では、誰も幸せにはなれないのです。

 

                    2016年2月2日   石谷牧師記

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