死んだ人間がよみがえっていると言えなくもないのです。
たとえば、夏目漱石の小説「こころ」、「先生」のそののちの生涯に「K」は大きな
影響を与え続けました。ついに先生は、深い苦悩のはてに、Kとの関係を清算するために
自殺することを選んだと読むこともできるのではないでしょうか。先生の生涯に亘ってKはよみがえり、
先生を想う「私」―読者の一人一人でもあります―が存在し続けるかぎりKはよみがえる、のです。
イエスのよみがえりは小説のはなしどころではありません。
人間を、なんと深い、なんと激しい、なんと美しい、なんと静かな、なんと柔らかい、なんとひたむきな、
百人の人間がいれば百様に、変えることか、その人生を大きく変えていくことか。人間の変わったことと、
その人間のその後の生涯を知ればその人間のうちによみがえったイエスがわかるのです。
たとえば、パウロ。イエスをメシヤと告白する者たちを迫害し回っていた男でしたが、あるころから、
イエスにこそ神の人間に対する救い、恵みが現れた、イエスのように生きることが今や神の人間への
まねきだとのメッセージを、ユダヤ人からは異邦人とされた人々に伝える仕事を始め、続ける者となり、
その結果としてローマで殉教したパウロ。
たとえば、ペテロという弟子。彼はイエス殺害後に誕生したエルサレムの教会の世話役・指導者となった
のを始めとして、その後はパウロの宣教によって生まれた教会にも行って信徒と親しく食卓を共にして
同信の者たちを励ましたのです。イエスを否認してイエスを見捨てて逃げて自分を守ったペテロでしたが、
あるころから仲間に仕える仕事を始め、続ける者になったのです。
たとえば・・・と語り始めたら、イエスの影響としか考えられない仕事に従事し、それを生涯続けた人間について
言い尽くせないのです。その人間にイエスはよみがえっているのです。その人間の側からは、私はよみがえった
イエスに出会った、私の内側にイエスの啓示が与えられた、というような言い方で説明されるのです。
私が自分の体験を踏まえて言えることは、イエスが私によみがえることは、まず私へのイエスによる赦しが
自分の内に示され、加えて私への仕事が与えられる、という実感であるのです。
体力があり知的な活動をすることができる日々には、人間が大切にされることために、
人間が生きる喜びをもって生活できるように、私たちめいめいに与えられた、召された、仕事をしましょう。
「仕事」と呼ばなくても、私たちに「生活する場、生きる場」があって、そこで自分を愛するように、
できるだけ隣人を広げて、深く愛していこうではありませんか、あのナザレのイエスがされようとしたことです、
私たちへのまねきです。
そして、もしも、やがて、体力が衰えたならば、この声が届くところにいる人間に、ありがとうの感謝とねぎらいを
伝えて生きようではありませんか。
もしも、やがて、自分で動く力と考える力を失うことを予感したら、
私によって周りの人間が生きることのヒントを得ますようにと祈りましょう。
このようにして、私たちのイエスから与えられる仕事は変わるのですが、私がよみがえるイエスの影響を受けて、
よみがえるイエスとともに、愛に生きたいと願う日々は地上の歩みの最終日まで続くのです。ハレルヤ、ハレルヤ。
( パウロのピリピ人への手紙1章20節のことばから・・・
生をとおしてであれ死をとおしてであれ、わたしのこのからだにおいてキリストが誉め讃えられるように )
2016年4月4日 石谷牧師記