「沖縄戦」を昔話にしない

 私たちが現在生活していく道を、後に生まれる子どもたちが生きていく道を、

照らす体験が日本の現代史にいくつかあると思います。そのひとつは、「沖縄戦」

です。日本本土を守るために苛烈なる戦争を日本軍が住民を巻き込んで実行したことは、

政府によって国民の命が軽んじられるという事実、否、戦争は自国のそして相手国の人間の

命を軽んじることができなければ遂行できないのです。あるいは、日本兵が自分たちを守る

ことを優先して、島民を棄民したという証言の数々。戦争は人間を狂気にしてしまうのです。

そうしたことが、私たちの自衛隊や集団的自衛権を考えることに活かされているのか。

 

 来週、6月23日は「沖縄慰霊の日」。沖縄戦がいま昔話となり、昔話にもならないで

忘れ去られている、私たち本土の人間の暮らしがあるのではありませんか。

沖縄戦の体験から戦争の実態とは何かを学びたいのです。

 

 ご紹介する「ねずみ」という詩、のなかにある浮彫(うきぼり)を、

私たちの現在日本社会において、何に言い換えることができるかと、私は考えるのです。

そして暗澹たる思いが迫ってくるのです。

市民が棄民されることがこれでもかこれでもかと起きてくる私たちの日本。

戦争で、数ある公害被害で、ビキニ水爆実験で被曝した漁師たちの放置、

国策による原発事故放射能汚染地への帰還政策で・・・、・・・・、・・・・  。

 

 恐ろしいほどに短期間に、「あれほどのこれほどの体験」を「ひらたくする」国日本の私たち。

私たちだけではなく、世界に共通するのかもしれないのですが。

 

 けれど、これではあぶないのです。

やはりこれでは私たちの子どもたち、子孫のいのちは、夢は、思想の自由は守れないのです。

私たち一人が一人が自分の「浮彫(うきぼり)」に出会って、よく見つめ続けて、

見つけたことを、考えること、選択すること、生きること活かしていけたらと思うのです。

 

 生死の生をほっぽり出して

 ねずみが一匹浮彫(うきぼり)みたいに

 往来のまんなかにもりあがっていた

 まもなくねずみはひらたくなった

 いろんな

 車輪が

 すべって来ては

 あいろんみたいにねずみをのした

 ねずみはだんだんひらたくなった

 ひらたくなるにしたがって

 ねずみは

 ねずみ一匹の

 ねずみでもなければ一匹でもなくなって

 その死の影すら消え果てた

 ある日 往来に出て見ると

 ひらたい物が一枚

 陽にたたかれて反っていた

      (山之口獏「ねずみ」1943年)

 

          2016年6月16日   石谷牧師記

 

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