私たちが勇気づけられたり、慰められたりするのはどういう時でしょうか。
誰かに自分が大切にされていると感じる時はそのひとつだと思います。たとえば、私は宮崎市の教会で
礼拝奉仕を1年に一度させていただく機会があるのですが、その教会の方から説教の感想とともに
礼状をいただくことがあります。私にだけ宛てられた手紙です、正直嬉しく、この方の生きることに用いられた
ことを知り励まされます。この方が私のために時間を作って手紙を書いてくださる、その時間は私に向かい合って
くださっている、嬉しいのです、なかなか得難いことと感じています。
「いったいいち」になって向い合い、相手を大切にする、相手に大切にされる、このことは、私たちが活き活きと
喜び深く生きていくことを支えているのではないでしょうか。そしてこの喜びから私たちの平和を作り出す行動が
生まれていくのです。
7月の説教では、「いったいいち」になって向い合い、相手を大切にする、相手に大切にされる様子を、
イエスのたとえから、パウロの手紙から、読み取り分かち合いました。たとえば、パウロの「ピレモンへの手紙」。
パウロは自分がイエスへの信仰に導いたピレモンに手紙を書き、向い合います。そしてピレモンの奴隷であった
オネシモが同じ信仰を持つようになったことを知らせ、ピレモンに対しオネシモを友として、仲間として迎えて
くれるように懇願します。ピレモンがパウロに強いられたからではなくて、自発的にオネシモを迎えてくれるように
懇願します。私はここにパウロの他の人間との関係作りの基本を見出す思いです。そして言い換えれば、
他の人間との間が平和はこの姿勢によって作られるのだと思います。
また、ルカ福音書15章の放蕩息子の譬をとりあげました。「父」は、相続した遺産をすべて使い果たして
帰還した弟に「いったいいち」で向い合い、帰ってきたことを喜びます。条件なしに弟と向い合い大切にする
父の姿は、まさに生前のイエスの、罪人・地の民呼ばわりされた人間に関わる姿勢でした。後半、父は祝宴に
加わろうとしない兄のもとにかけつけ、これまた「いったいいちで」向かい合い、兄の言い分を受けとめつつ、
自分の思いを伝える対話を試みます、兄が自発的に弟を赦し帰還を喜ぶ者になって欲しいと懇願します。
生前のイエスの、自らに敵意を剥きだす者に向かっても、力(ちから)を使わないで、誰もが神に愛されている
のだという福音を語り続けた姿勢をほうふつさせます。迷い出た一匹の羊を探し歩く羊飼い、朝から働いた
労働者に対し、夕方から働いた労働者にも同じように生きていくために必要な賃金を渡したいのだと語りかける
ぶどう園の主人、イエスの考えていること、行動していることを―それが福音―表したたとえの数々。
ところで、イエスもパウロも殺害されていくのですが、なぜなのか。それは、いったいいちになって相手と
向い合いその相手を大切にすることを、好まない人間の在り方が根強く私たちにあるからです。私に言わせれば、
他の人間を「個人として尊ぶ」ことはしたくないということです。いつの時代も現在も、他の人間の尊厳を軽んじる
ことでもたらされる利益の「享受者」が存在しており、この者たちはその利益を「暴力」を使って守ろうとするのです。
日本社会に私の中に見出す現実です。だからイエスのように、パウロのように、ひとりを大切にする生き方をしようと
する者は、この現実社会では、なかなか自分の願うようにはことが進まない「悩み」に苦しみ続けることでしょう、
「十字架につけられしままなるナザレのイエス」に私たちはつながっているのです。
それでも、と私は呼び掛けたい。私たちの平和作りの基本に、他の人間といったいいちで向かい合い、
相手を大切にするという、「個人を尊ぶ」ことを堅く据えて、それぞれの生活の場面では精一杯応用編に努めようと。
まずは私たちが、自分が大切な個人として、信仰の友から、ゆえにアバ・大いなる恵みと赦しと招きの方から
いつも迎えられているのです。
そうです、あなたは、わたし(たち)にとって大切な個人なのです。
2018年8月3日金曜日 石谷牧師記