第12信「私の仕事、被爆者の思いを伝える」

 2014年が始まりました。読者のみなさまお元気に新しい年を始められましたか。神さまの恵みを日々受けてお健やかに歩まれる一年でありますようにお祈りいたします。
 私の仕事には、被爆者がお話しくださったことを、子どもたち、大人たちに伝えていくことがあります。私たち市民が戦争ではなく平和の種を蒔く歩みを続ける上で、被爆者のメッセージは、私たちの「動機」を励まし「歩む方向」に示唆を与えていると私は感じています。今回の「ひろしまからの風」では、私が子どもたちに伝える際に用意した原稿のひとつを紹介させていただきます。読者の近くのお子さんにも読んでいただければ嬉しいです。

 

「ピカ・ドン」と被爆者はあの原子爆弾を表現しました。1945年8月6日午前8時15分に被爆者の眼と耳がとらえた原子爆弾です。
その原爆を経験した被爆者からお聞きしたことをみなさんにお伝えします。私はふたつの「なぜ」についてみなさんともに考えることをとおして、お伝えしようと思います。

 まず一つ目の「なぜ」です。
なぜ、ひろしまとながさきに原爆は落とされたのでしょうか。
それは日本とアメリカが戦争をしていたからです。戦争をしていなかったら、原爆は落とされませんでした。その戦争について振り返ってみましょう。
 広島と長崎へ原爆が投下される原因となった戦争、それはまず日本と中国の間での戦争です。
あのころ、日本のあるアジアという地域の国々は、アメリカやイギリス、スペイン、オランダ他の強い国々によって植民地にされました。不平等な約束をさせられて貴重な資源や土地、労働力などを奪われ、工業製品を買わされるようになっていました。
 小さな島国日本も国のちからを強くするために資源が欲しかった、そこで日本はまず中国の北東部を植民地にしようと考えて軍隊を派遣して攻め込みその地域を日本のものにしました。原爆投下の14年前、日本軍は満州事変という戦いを起こして、中国のなかに日本のために都合の良い満州国を作りました。日本からたくさんの農民を移住させて中国人の土地を奪うようにして満州国は作られていきました。しかし中国人も黙っていません、激しく抵抗しました。とうとう原爆投下の8年前、日本軍は中国と全面戦争状態に入りました。
アメリカやイギリスは日本の支配する地域が広がると自分たちの利益になりませんから、中国の味方をして、日本に対していろいろな手段を使って日本たたきを始めました。日本は石油を輸入する貿易などの点で苦しくなり、何とかして自分の利益を守ろうとして、とうとうアメリカとも戦争することに決めました、日本軍は1941年12月8日にハワイの真珠湾にいたアメリカ軍への奇襲攻撃をしました。原爆投下の4年前です。こうして日本は中国とだけではなくアメリカとも戦争を始めたのです。日本は、アジアの国々を戦場にして中国、アメリカ、イギリスなどの国との戦争を続けたのです。 そしてアメリカは広島と長崎に原爆を使いました。


 二つ目の「なぜ」は、被爆者は思い出すのもつらい自分の原爆体験を「なぜ」みなさんに伝えようとしているのでしょうか。
 一つ目の理由は原爆が人間の頭の上で爆発したときの直接体験を話すことのできる人間は、世界中で広島と長崎で生き残った被爆者しかいないから。被爆者は、原爆が爆発するとまず放射線が放出された、そして「ピカ」と光って、そのひかりは人を殺すことのできる恐ろしいものすごい高い熱をもった熱線だったことを、みなさんに伝えたいのです。原爆の爆発によって、人間の体は放射線を受けて体を作っている細胞が壊されてやがて死に至る、高い熱に体の表面の皮膚だけではなく体の内部までやけどをして死ぬことが起こりました。
それだけではありません。さらには、原爆の爆発は「ドーン」という音ともに、爆心地付近では1秒間に進む速さがなんと440メートル、爆心から2キロメートルでは60メートルであったという「強い強い風」(衝撃波)であったことを伝えたいのです。この「風」によって爆心地から半径2キロメートル以内の家、建物はめちゃめちゃに壊されました。中にいた人は下敷きになりました、中に取り残されてしまいました、そして壊された家からは火が出て広島の町は大火事になってしまい、下敷きになって身動きできずにいた人間は逃げ切れずに生きたまま焼かれて死んでしまいました。この原爆による「放射線」「熱線」「爆風」の体験を被爆者は伝えたいのです。
 二つ目の理由は、被爆者は分かったのです。私たち国民がふだんから、戦争が起きないように、核兵器をなくすように、声を出し行動することがどんなに大切なことであるかということを、戦争を体験して被爆体験してよく分かったのです。平和は国民が自ら作りだすもの、平和は国民が自ら守っていくもの。ふだんから戦争をしない、核兵器をなくす、そういう世界をみんなで作っていく努力をすることの大切さが分かったので、そのことをみなさんに伝えたいのです。


原爆が落とされた時、女学生だった出江(いずえ)広子さんの「ピカ」「ドン」の体験を聞いてください。
このころ子どもたちは、勉強どころではなくなっていました。戦争を続けようとする日本政府の命令によっておとなも子どもいろいろな仕事を割り当てられており、女学生は軍需工場他の工場、事業所の仕事をしました。また建物疎開の仕事もさせられました。建物疎開というのは、空襲によって火事が広がってしまい、町全体が燃えるのを防ぐために、たくさんの家を壊してはばの広い長い道路のような空き地を作る、そして、その後片付けをする仕事です。

8月6日、広島はよく晴れた月曜日でした。出江さんは13歳、妹さんは12歳の女学生、二人はそろって家を出ました。出江さんは爆心地から2.4キロメートルのところにある学徒動員先の安芸印刷所へ、妹さんはざこば町での建物疎開。
 8時15分・出江さんは建物のかげになっている空地で朝礼中、生徒たちはきちんと整列をしていました、まさにそのとき、 「ピカッ」強烈な閃光(せんこう)、オレンジ色の光がそこらへんいっぱいになったようでした。
 出江さんは爆心地から2.4キロ離れていたこと、引率教員が日ざしをさけて建物のかげに生徒を導き朝礼をしていたことで直接熱線を受けなかったことが幸運でした、やけどをすることはありませんでした。もしまともに熱線を受けていたらどうなったか。爆心から600メートルでは2000度の熱線が届き、爆心から1200メートルで熱線を浴びた人は皮膚の内部までやけどしたと言われています。 たとえ一瞬でもこの熱い熱線が当たったら、出江さんの体はどうなるでしょう、大やけどです。

出江さんは幸運だった。でもその時刻、1歳年下の12歳の妹さんは爆心地から近いざこば町にある屋外での建物疎開作業中です、ピカッ・放射線と熱線、ドン・爆風を遮ってくれるものはなかった。爆心から1キロメートルでは爆風の早さは160メートル/毎秒だったと言われています、台風の4倍です、人間の体は吹き飛ばされるでしょう。出江さんの妹さんの体はどうなってしまったのか、どこでどんな様子で亡くなったのか、いまも分かっていません。

被爆者は「自分らと同じ体験を他の人に、子どもたちにさせてなるものか。」と立ち上がり、情熱をもって、自分の被爆体験を語り伝えてこられました。

被爆者は人間には恐ろしい面があると思っています。原爆が落ちる原因である戦争を起こしたのは人間、戦争が起きることを止められなかったのも人間、その戦争に協力したのも人間、原爆を莫大なお金を使って製造し、生きている市民の頭の上に落としたのも人間。この恐ろしいことをする人間の中にはここにいる私たちみんなも入っているのです。私たち人間はあやまちを繰り返す可能性がある。だからまた私たちは戦争を始め、原爆を、核兵器を、戦争で使うかもしれない、被爆者はそのことを分かって「自分たちと同じ原爆体験を他の人に子どもたちにさせてなるものか、核兵器を使ったらどんなに恐ろしいことになるかを伝えねばならない、私たち市民が戦争を起こさせないようにし、世界中の核兵器をなくそう。」と立ち上がっているのです。

私たちと私たちの国日本が、他の国の人たちとお互いに理解し合い認め合って、争いを話し合いで解決できるようになりたいですね。私たちは他の国の人たちと仲良くしていくにはどうすればいいかを考えて実行していく子どもたち、おとなになっていきたいです。

最後に、みなさんへ被爆者からのメッセージです。
 「人間は争いを戦争でなく話し合うことで解決することができます
核兵器を作った人間は核兵器をなくすことができます、
 人間の持つ可能性に希望を持ちましょう。」
というメッセージをお伝えして、私が被爆者からお聞きしたことのお話を終ります。

以上

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