早いもので今年もクリスマスの季節を迎えます。
私はイエスの誕生を2019年も喜び祝えることをありがたいと思います。
なぜならイエスが、自分も他の人間をも評価せずにおれるせかいがあることを教えて
くれているからです。このせかいには安心があります、温かみがあります、分かち合うことが
起こってきます。
そしてこのせかいには、みなで生きる生活の場で大切にしたいことがあります。
どうぞお読みください。
自分を誇り自分を自分で落としめるという自己評価がまとわりついている私です。
あるときの自分の行動が誰かの生きることを妨害してしまったのではないかと、
分かった時の申し訳なさのあとにきたものは自分を情けなく思う脱力感でした。
この体験を忘れてはなりません、活かしていかねばなりません。しかしこの自己評価は
他人を評価することにも繋がっていきます。そして人間を評価することは、地位や賃金、
冨の分配、合格不合格を決める手段にもなります。こういう現実のなかで生活しながらも、
私はイエスから、自己評価することも他人を評価することも無いせかいにも生きていけ、
と示されます。放蕩息子が練りに練って決めた父へのお詫びの口上に対し、
父は「どうぞ雇人のひとり同様にしてください」を言わせていません。
弟息子にとって雇人は評価の低い人間で自分はそれに落とされてかまいません、
と言いたかったのです。こんな人間への見方は父にとって論外です。
だから、兄が弟の放蕩に身をもちくずした姿を評価して酷評し、一方で自分の服従をたてに
言い募るあり方を父は認めていないのです。人間を評価しない、どんな物差し規準でも評価しない、
そうではなくて、その人間が存在して有るということが一番の喜びなのだ大切なのだ。
父のふるまいに託したイエスのメッセージです。
イエスの親しみ、私たちにも語りかけるアバの姿なのだと私は信じているのです。
だからこそイエスは、成人のようにしてはなにもできない子どもを迎えて抱き上げて
「神の国はこのような者の国である」と断言したのではないでしょうか。
だからこその、人々が罪人と評価したザアカイだけれども、そんな評価なんぞに
つき合わなくてもよろしい、としてザアカイの客人となって歓談交流したイエスだったのです。
自分も他の誰をも評価しないで、ただこうして存在して有ることを喜び大切にしていくせかいを
作ろうではありませか。家庭に私たちの教会に集いに友人との関係に自分の身の回りに、
この社会に、この世界に・・・。
2019年11月25日 石谷牧師記