≪クリスマスメッセージ≫
「いつでも、どこにあっても、いちばん大切なことに生きよう」
聖書箇所:ルカによる福音書2章8節~21節
イエスの誕生を記念するクリスマスおめでとうございます。
私は喜びをもって、「おめでとうございます」とみなさんにご挨拶をお届けします。
みなさんも私と同じと思います。みなさんはイエスの生涯全体、そのなかのこの場面、
この言葉に、慰められている、励まされている、立ち上がらされている、勇気付けられている、
そんな体験を今年もされたのではないでしょうか。
「インマヌエル」、私たちの生活の場と状況は違いますが、イエスに対して
そのような感慨を抱いておられることは共通、共有体験としたいことです。
なぜ、おめでとう、なのか。わたしの場合はこうです。
私はイエスから毎日の生活をおくるうえでの「背骨」を与えられています。
この背骨を言葉にするとこうです。「いつでもどこにあってもすべてのいのちが、
喜び生きることこそ一番大切なことである、とイエスは生涯を捧げて示してくださった。
そしてイエスの信ずるアバ・神は、イエスの生涯の帰結とならざるを得なかった十字架刑死を
そのそばで共に味わい、けっして、敵意をむきだしにした人間、逃亡した人間、
傍観した人間とイエスを見捨てるのではなく、むしろ愛し赦し招き、
イエスをまずはペテロをはじめとする弟子たちの内面に、
次には行動に復活させていくことによって、イエスの生涯全体はその主張は、
わが意思わが肯定と示してくださっている。」
生きる上でのモットー、よりどころというのでしょうか、この「背骨」なるものがあるから、
私は直面することに動揺しないでおれます。たとえ動揺しても最後には安らかでおれます。
だから感謝、「おめでとう」なのです。
たとえば私には次のような「教会が自給しているか」についての体験があります。
私は多くのキリスト教会で語られる「自給」の意味を知っています、
かつては自分が苦しめられたことばでもあるのです。
それは、ルカ福音書10章7~8節
(注意してください、ルカにあるこのことばは最古の福音書マルコにはありません)
と第一コリント書9章13節~14節を根拠にして、教会が献金でもって牧師家庭の経済生活を
支えていることが教会の自給であるという考え方です。かつては私もそのように考えたことがあり、
自分がそうではないことに苦しみもしたのです。
私は若いころ牧師を待たないで集会を行う無教会の方にお世話になり、
キリスト教会で信徒指導者と呼ばれている方たちと交流があり、
他に職業を持ちながら教会の牧師として働く仲間もいる、
ということで教会から謝儀(給料)を得ないで牧師として働くことに柔軟である一方で、
何か欠けているような、まだ一人前の牧師ではないような落ち着かない気持ちを
かつては持っていたのです。
でもいまはこのことで私は全く平安。
なぜ私が平安でいられるか、先ほどの背骨です。
「いつでもどこにあってもすべてのいのちが、喜び生きることこそ一番大切なことであると
イエスは生涯を捧げて示してくださった。~略~ 。」
私にはこの「背骨」を私自身と、私が出会う人たちに実現することが一番の大事であり、
これを実現するために、私と私たち広島教会の場合は、
私が女子教育の場で働かせていただいたことで、現在まで歩んでくることができた
という感謝と喜びがあります。
そして「自給」ということでは、私たち広島教会は「わたしたちなりに自給してきました、
自給しています」とも言いたい、みなさんはどう思われるでしょうか。
みなさん、かつて私が前述の箇所で苦しんだように、聖書のことばによって、
人が自己肯定することができなくなったり、悩むようになったり、人の持つ可能性や願いが
封じ込められてしまう例がありますね。
私たちはいつも、そもそもイエスのメッセージは何か、福音とは何かを、
自分が直面するできごと、日常の具体的な人との出会いと直面する社会のできごとを
通じて考え、あるいは聖書の成立過程の学び、キリスト教歴史の学び、
現代社会についての学びを続けながら、虚心坦懐求め続けましょう。
たとえば、あなたは第一テモテ書2章11節から15節をどう読まれますか。
実際にあった話ですが、本当に長い長い年月に渡ってある教会では、
この聖書のことばを根拠にして、女性はたとえ本人が願っていても牧師になること、
教会の重責を担うことが閉ざされていたのです。
その年数はなんと66年間。さいわい現在では女性は男性と同じように牧師、
役員の責任を担えるようになりました。
不思議なことです。私自身はこのテモテ書に書かれている言葉を何度も読んでいますが、
私たち広島教会に当てはめることなど一度も考えたことはありません。
私はイエスがどういう考え方を持つ人たちに危険視され敵意さえもたれ、
しまいには殺されていったかに関心を寄せて聖書を読みます。
そのなかで、字面(じづら)の文言に捕らわれてしまって肝心要(かんじんかなめ)の
人間の喜び生きることを最優先にすることができなくなってしまった人間の有様、
そしてその現実のなかで、前述の「背骨」のメッセージを、放蕩息子のたとえ、
葡萄園労働者のたとえ、いなくなった一匹の羊を探し求める羊飼いのたとえで語り、
そうしたたとえを、取税人や病気に苦しむ者や子どもたちの中に入って実践するイエスに、
さらには安息日の行動の取り決めを金科玉条のようにつきつけてくる者たちに向かって、
アーメンアーメン私は言う、
安息日は人間のためにあるのであって、人間が安息日のためにあるのではないと宣言する
(マルコ福音書2:27〈注意してください、このことばはマタイとルカ福音書にはありません・
なぜでしょうか〉)イエスに感動するのです。そういうイエスをわがよりどころにして、
第一テモテ書のことばを字面どおりに私の生活現場に取り入れる発想は
まず生まれてこなかったのです。
聖書はノンフィクションとフィクションの混在、イエスに遡るメッセージと
イエスをキリスト・赦し招いてくださる方、導き手、よりどころと告白する人々が(教会が)、
その状況下懸命に信仰者として生きようとする最中(さなか)に仲間と自分を鼓舞し集いに
勇気と希望と秩序を産み出すため、信仰のうちに、与えられていったことばの混在、
とも言えるのではないでしょうか。
だから私がしたいことは、聖書を丁寧に読み親しみながら、私の生活する、
いまここで、私を含めてすべてのいのちが喜び生きることこそ一番大切なことであるとするイエスが
しようとしていることは何かを、自分で考え・想像し、
考えついたら、自分の責任で実行していくことなのです。自分の責任で実行した者たちのなかに、
この文章で紹介した言葉を書いた著者たちがおり、――ルカとマタイのクリスマス物語があり――
第一コリント書9:15~18をお読みください、パウロもそのひとりです・パウロの自分の責任で
あえて教会から経済的に支えてもらうことはしないという宣教への意気込みが伝わってきます。
ドイツにはボンヘッファーという牧師がいました。この方はナチス・ヒットラーの暗殺計画に参加し、
捕えられて命を奪われたのですが、次の言葉を残しました。
「神の面前で、神とともに、神なしで生きる」
ボンヘッファーの書いた著作を少しですが読んでいる私の解釈は
「神の恵みのまなざしのなかで、神に支えられ、自分の生きているこの場で、
自分の責任で行動を選び生きる」
みなさん、自分の責任で行動を選び生きることの原点・模範になった方は誰でしょうか。
「アーメンアーメン私は言う」ナザレのイエスこそこの行動の先駆け、私はそのように思っています。
自分の歩みを振り返り思います。
もし、私が先ほどの第一コリント書9:13,14節に捕らわれることが続いたら、
いまごろ私はどうなっていただろうか。自分を責め続け広島教会の現状を嘆いている
かもしれませんね。しかし広島教会の牧師としてみなさんに迎えられた私を、
イエスとアバは嘆きに終わらせることなく、今の私の晴れやかな気分にまで導かれた、
私は最後まで、めんどうをみていただいている、導かれていくと思っているのです。
だからだから、私は、イエスの誕生を記念するクリスマスおめでとうございます、
喜びをもって、「おめでとうございます」とみなさんにご挨拶をお届けするのです。
以上は、私がクリスマスおめでとうございます、と言うわけについてでした。
みなさんの「わけ」をお聞きしたいです。私たちひとりひとりは、それぞれ違う生活の場を
持っています。直面していることも、悩んでいることも、なんとか解決したいと思うことも
独自のものがあります。そういうあなたを覚えて私は祈っています。
あなたが取り組んでいることのただなかで、あなたを支えている背骨が育てられている
ことでしょう。私たちは広島教会に集められた仲間たちアデルフォイです、
私たちはお互いの歩みの上に共通の主・イエスの導きと慰めと励ましを祈りましょう。
お会いする時は共に祈り合いましょう。
私はあなたと、それぞれに与えられ育てていただいた「背骨」、
主イエスの誕生に感謝しますというその「わけ」を分かち合える日を楽しみにしています。
2021年1月11日 石谷忠之牧師記