2021年寒中お見舞い申し上げます

        2021年寒中お見舞い申し上げます

 2020年は“コロナ”を受けとめての日々の暮らしでしたね。読者のみなさまはどんな一年を

お過ごしになられましたか。私の方はもっぱら外出を避け、人たちとお会いすることを最小限に

することに努めましたが、それでも自分の心身の健やかさ安らかさを保つために、ときどきは

一人歩きすること、楽しくなることをしました。そんな私の2020年を、写真を使ってお伝えします。

この新しい年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

 1月、宮崎市へ教会の仕事で赴く途中に水俣市を訪ねました。

目的は石牟礼道子作品『椿の海の記』に描かれている風景に出会うことでした。

作品はもしも石牟礼さんが自分の幼少期のころを設定しているとしたら1930年代、

昭和でいえば10年までのころ。ですから現在の水俣市内の町にもうそのころの面影は

ないのですが、それでも作品にある穏やかで豊饒なる不知火海、天草の遠望、

海岸の波打ち際、水俣川河口の際までせまっている低い山の連なりを、この眼に実感する

ことができました。また古い地図を片手にして二日間に分けて市内を歩きましたが、「猿郷」「避病院」

「八幡舟津」「亀首」「永代橋」「栄町」「桜井町」「大黒町」「百閒」「新日窒水俣工場」「梅戸」など

地名には当時のままのものがあり、石牟礼道子作品をいっそう親しく読めるようになったと感じます。

写真は、不知火海の向こうに天草の島々(大崎うざきにて)

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 2月には、やはり宮崎へ教会の仕事で赴く途中、教会の友人と大分予科練資料館を訪ねました。

この資料館はあの戦争の時に予科練出身であった方が、平和を祈念して資料を収集し自宅に

資料館を開設し現在は息子さんがその志を引き継いでおられます。

親子のひとすじの願いに感じ入った訪問となりました。

 

 新型コロナの影響を大きく受けた今年のひろしま8月6日。私はアルバイトを休みにして

教会礼拝堂近くの牛田山に登り8時15分に黙祷することにしました。

 1981年から広島に住むようになった私には40回目の原爆記念日、そして私は65歳。

山頂で思ったこと。それは私が存じ上げている被爆者のみなさんは、あの日の肉親との別れ方、

友との別れ方に一人になると慟哭し自らの肉体に刻みつけられたきずのうずきに耐える生活を、

私の生きた時間にさらに10年を加えて、今日この眼下のひろしまのどこかにおられる。

そして今年もまた核兵器廃絶は実現しない、いったいいつ実現するのか。

 そして10月の終り、私が被爆体験伝承をさせていただいているKさんが亡くなられました、

放射能の怖さを伝え続けた88歳の生涯でした。

 山頂では私と同じようなふうの方が10名ほど、はっきり届いたサイレンに合わせて静かに

それぞれの黙祷を合わせました。

私は核兵器廃絶を願って暮すことをここひろしまで続けていきます。

 写真は牛田山から8月6日のひろしま市内です。

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  10月に、コロナ防疫に厳重に努めながら、リフレッシュ・気分転換に日帰りのできる

瀬戸内の島を訪ねました。そのひとつは広島の西方、柳井市の沖にある祝島です。

祝島の住民には、中国電力が上関という場所に建設計画している上関原子力発電所に

計画発表の時から反対運動を続けてくださる方々がおられます。

この日は私が長い間果たさずにいた祝島フィールドワークとなりました。

 写真は祝島港です。

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 私は毎年5月と11月に体力の定点観測と名付けて宮島の弥山(みせん)他の山歩きを

していますが、今年はコロナ禍を避けるために行きませんでした。そこで12月に入り、自宅から

出発して人とあまり会わずに徒歩のみで行ける、松笠山そして牛田山を、

縦走とは少々大袈裟ですが、歩きました。途中牛田山の近くに位置する教会礼拝堂で

昼食休憩して、ゆっくりと6時間くらいをかけて山歩きを楽しみました。

 

 元気に過ごせていることを感謝して2021年もこのホームページで読者のみなさんと

交流を続けたいと願っております。どうぞよろしくお願いいたします。

 

        2021年1月18日月曜日  石谷忠之牧師記

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