深紅面目26 「イースター礼拝メッセージ」

2021年4月4日 イースター礼拝説教

「受け継がれていくイエスそして福音―イエスの弟ヤコブ、ペテロ、

パウロ、そして私たち、さらに私たちからー」

聖書箇所:ガラテヤ書2章11節~16節

長い文章になってしまいました。実際に聖書箇所を開いて、

ゆっくりと何回かに分けて読んでいただければ幸いです。

 

<ペテロとパウロの共感>

イエスの十字架刑から19年ほど後、紀元後49年頃。ユダヤ人にとっては異邦人の土地、

アンテオケの教会を訪問したユダヤ人ペテロは、パウロと異邦人キリスト者と共に食卓を

囲むことができました、それはなぜなのでしょうか。

ガラテヤ書2:12前半からは、ペテロがパウロの伝えていることに賛同し、割礼をしていない、

つまりは律法のもとには立たない異邦人キリスト者を受け入れていたことが分かります。

33年頃に回心したパウロは、神に救われるのに割礼というようなユダヤ教の教えを守る

必要はなくなった、いまやイエスが伝えているように、神は無条件に資格や功績を問わないで、

すべての人間の存在そのものを愛して赦して招いているのだ。イエスはこの信仰に

生きたのである、

十字架刑死に至るまで生きたのである、そして神は、このイエスの信仰は、

しかり神の意志であるとして、イエスを死から起こす・復活させることで肯定されている。

私たちはこのイエスの信仰をわが信仰としよう、とパウロは語り、ペテロも同意していたのです。

 

 <あの夜のペテロ>

 なぜペテロはパウロと足並みを合わせることができたのか。じつはパウロよりも前に

ペテロこそが、無条件・人間の資格や業績を問わない、神の赦しと招きの福音にすでに

生きていたのです。ペテロのことを振り返ってみます。

私はペテロがイエスとともに過ごした最後の夜に注目します。その夜のペテロの様子を

再現してみましょう。

 

マルコ福音書14章12節から72節

1.         イエスは宣教の旅の苦楽を共にした弟子たちと食卓を囲みます。

イエスは逮捕される予感をかかえながらも、ごく内輪の者・弟子たちとの親密な時間に

安堵していたと想像することができるのではないでしょうか。

ペテロはこれから起こるかもしれないことに不安を感じながら、いつも以上に

イエスに眼と耳を傾けつつ、イエスと囲む食卓の幸いに感謝していたことでしょう。

2.         この場面を変えるようにして、イエスは声を上げ弟子たちみなに呼び掛けました。

このパンを取って食べよ。このパンはあなた方のための 私のからだ。

さあ杯から飲みなさい、これはあなたがたのための 私のち。

このとき、ペテロはイエスの言葉としぐさに促され、厳粛な気持ちになって

パンを食べ杯を飲んだことでしょう。

3.         そののち、ペテロは祈るイエスのそば近くに座ることをゆるされました。

イエスがもだえるようにして一心になにごとかを祈っている姿が見えました、

しかしこれまでの旅の労苦と一日の疲れがどっと出てきて眠りこけてしまいました。

4.         そしてイエスは捕えられていきました。抵抗することもなく非暴力のイエスでした。

ペテロはイエスを置き去りにしてなんとか逃げることができました。

5.         ペテロは保身を第一にしてその場から逃げはしましたが、見つからないようにして

連行されていくイエスの後を遠くからつけていきました。そしてイエスへの尋問が開始された

大祭司のやかたに忍びこみました。イエスがどのようになるのか、恐怖と不安が大波のように

体のなかで打ち寄せていたのではないでしょうか。

6.         ペテロにあなたはイエスのなかまだ、と問う者がいます。

ペテロは、おもわず、いや違う、私はあの男を知らないと打ち消します。

7.         その直後逃げるようにして、ペテロはふたたびみたびイエスに報いることのできない

自分の勇気のなさ、ふがいなさに泣き崩れながら、やかたをあとにしたのでしょう。

夜が明けてのち、ペテロはイエスの十字架刑場にいたのでしょうか。

 

<生きかえったペテロ>

この夜のあとでペテロに何が起こったのでしょうか。

ペテロはガリラヤ湖で漁師をしているときに、神は今や無条件になんの資格も働きも

問わずにすべての人間を赦し恵み神の愛する子としてくださる、

インマヌエル神が共に歩んでくださると語るイエスに出会い、イエスのことばを受け入れ、

イエスの行動に従うと決めました。そして3年ほどイエスに同行する旅のあいだに

イエスに出会うことで生きかえっていく人たちを見ていました。

そしてこの夜のあとで、本当に心から分かったことは、無条件・資格を問わない福音に

救われる人間とは誰か、神に愛されている・受け入れられている者とは誰か、

父に待たれている放蕩息子、一日分の賃金を受け取る1時間しか働けなかった葡萄園労働者、

見つけられる迷い出た羊、探しだされる失われた1枚の貨幣とは誰か、

ああそれは自分なのだと、イエスに対する自分のありさまなのだ、と分かったのです。

はじめてのようにして、ペテロはイエスの語ることばを我が身に受けとめたのです。

そしてやがてイエスとイエスに現れている神の自分への、隣人への赦しと招きを人々に伝えたいとの

こころざしが生まれたのです。このこころざしを持ち続け実行し続けていたペテロだからこそ、

アンテオケ教会で異邦人キリスト者と食卓を囲めたのです。

あの夜、自分の弱さを痛感し、挫折し後悔し絶望するペテロは、まさにそのような

イエスとの別れをしたからこそ、イエスの伝える福音に慰められていく自分、

少しずつ立ち上がらされていく体験を深めていったのではないでしょうか。

そしてイエスの福音を、自分が隣人に伝えていく、分かち合っていくのだというこころざしを

持つようになり立ち上がったのではないでしょうか。別れから始まることがあります、

別れがあったからこそ生まれる生き方が人間には起こるのです。

 

ガラテヤ書1:18~20によれば、イエスの十字架刑から5年ほど後紀元後35年頃、

イエスの福音を異邦人に伝えようとするパウロは(回心後2年ほどのち)、

エルサレムに生まれた教会(研究者からは原始キリスト教会と呼ばれています)の

指導者となっているペテロに会わんとして訪ねています。ふたりは初対面でした。

私の想像ですが、パウロはペテロに、ナザレのイエスは何を語りどのように生きて、

そして何を自分たちにもたらされたかを聞きたい、そして語り合いたいと切り出し、

その話し合いは共感すること大きく多く充実し実りある、お互いの心が燃えるような語らいに

なったことでしょう。パウロはペテロのもとに15日間滞在したと書いています。

この記述で記憶しておきたいことのもう一つは、パウロはイエスの弟ヤコブに会っている

ということです。ユダヤ教主流派からも評判の高かったと言われているヤコブなのですが、

彼はすでに原始キリスト教会ではペテロに並ぶ重要人物であるとうかがうことができます。

 

<福音を生きる三人三様のすがた>

話を紀元後49年頃のアンテオキア教会に戻しましょう。

ガラテヤ2:12を読むと、ペテロは、ちからを持つ者の前にきぜんとして立つことができずに

逃げてしまうという弱さをいぜんとして抱えていました。だから割礼をはじめとするユダヤ教の教えと

エルサレム神殿体制を重んじながら、ユダヤ教権力・ユダヤ教主流と折り合って信徒集団を

守っていく選択をしたイエスの弟ヤコブが介入してきた時、ヤコブと対立してまで自分の信仰を

明らかにしてはいかなかったのです。ペテロは異邦人キリスト者と食卓を囲むことをやめてしまいます、

彼らは割礼を受けておらず律法のもとにいないからです。この行動の一貫していないこと、

その福音の理解と徹底についてパウロから激しく追及されるペテロを私たちがどう見るか。

あなたはどう見ますか。

 

私の見方はこうです。

イエスの信仰は、無条件・人間の資格や業績を問わないで、神は人間を赦し招いておられる

ということです。人間の欠けたること、的の外れた在り方、思い違っている姿、

弱いとしか言いようのない姿、とにもかくに人間のありのままの総体は、

イエスの信仰とそれをしかりと肯定される神の前には、まったくもって赦されているのです。

この神の赦しと招きのうちに、なおも律法を重んじるヤコブも、パウロに共感しつつも

パウロのようにはなれないペテロも、神の救いを受けるのに律法を守ることは前提とされなくなった

とするパウロも、神の働き人とされて、それぞれの時と場の状況において、ヤコブにはヤコブの、

ペテロにはペテロの、パウロにはパウロの、自分の生きる状況のなかでの、

在り方・生き方をどうするかについて、自分の責任で決断をして、

三人三様にイエスの信仰とイエスの福音を語り行動していったのです。

 

人間に完全無欠などない、欠けていて良いのです。イエスの福音においては、

たとえば野球のピッチャーの面々、0勝10敗も5勝5敗も9勝1敗もいいのです、

投手としてそれぞれにがんばって投げた、勝ちも負けもつかない中継投手もいいのです、

がんばってりっぱにやくわりに携わったのです。

福音はそこに存在している人間を応援したいのです。福音は人間のものさしとは違うのです、

そもそも人間を評価することはないのです、人間への赦しと招きには境界はないのです、

壁はないのです。

 私は私がみなさんに述べている、「無条件・人間の資格や業績を問わないで、

神は人間を赦し招いておられる」ということを、これと同じ言葉で・言い回しで、

イエス自身が、あるいはペテロが、あるいはパウロが語ってくれていたらどんなに

良いかと思います。しかし残念なことですが、あの当時には、無条件とか、資格を問わないとか、

業績を問わないとか、赦しとか、招き、とう言葉や言い方はなかったのでしょう。けれども、

イエスのたとえ話と言葉と行動のなかに、ペテロとパウロのそれぞれ独自のことばと行動のなかに

見出すことはできるのではないでしょうか。

 

 しかし、断固として合わせて言わなければならないことがあります。

ヤコブ、ペテロ、パウロから教えられることです。それは、私たちが福音を受けたならば、

イエスに、イエスを立てた神に、福音に、私たちが応答していくことができるという恵みです、

これは強制ではありません、受けた者の生きがい働きがい、自分の可能性への挑戦です。

それが、招かれているということです。赦しと招きがひとつになっている福音。みなさんも共感してく

ださることでしょう、私たちは赦しを味わうと赦しに応えたいという気持ちになります。

そして応える行動をしていくなかで自分の欠けやどうしようもなさに気付く時、

ふたたびみたびと赦されて在ることを知るわたしたちの今です。

 

<私たちは福音を次の世代に渡していこう>

 さて、私たちは何者でしょうか。

私たちは賢くありません、知恵もありません、世の中でちからがある者でもありません。

ユダヤ教徒でもなくユダヤ教と旧約聖書、新約聖書に精通した者でもありません。

愛深いわけでもありません、思慮深いわけでもありません、行動に一貫しているわけでもありません。

 でも、このような私たちは日々にイエスと神の意志を求め、自分を用いてくださいと祈っています。

この世界の人々に平和を作ってください、そのために私を用いてくださいと祈っています。

どうして祈ることのできる自分なのか。そうです、私たちは、「無条件・人間の資格や業績を問わないで、

神は人間を赦し招いておられる」という福音を受け取り、ヤコブ、そしてペテロ、そしてパウロと

同じように、私たちも福音に応えようとする者にされているのです。

私たちのうちに、イエスの信仰が生きている、このことは、私たちのうちでイエスが死から起こされて

生きているということ。そうです、ヤコブ、ペテロ、パウロと同じように、私たちの内にもイエスが復活して

いるのです。私たちにこの福音が実現しているのです。

 

「無条件・人間の資格や業績を問わないで、神は人間を赦し招いておられる」という福音を、

今度は私たちから次の世代の人たちに渡していきたいと願います。

この福音には人間を生かす力があると、あなたは思われませんか。

すべてのいのちが神による尊厳を持つと知って私たちを優しくさせる、

今こうして私たちが集まっているように人間と人間を結びつけるちからがある、

そして人間の世に平和を作り出すちからがあるとあなたは思われませんか。

この福音は私たちの社会に隣人に世界の人々に、在って意味があると思われませんか。

私たちはこの福音を次の世代に渡していくという願いを共有しようではありませんか。

この願いを実現できるように私たちは共に祈り求めていこうではありませんか。

 

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