[説教要旨]
「ナザレのイエスからの勧め
abba・アバ(おとうちゃん)と暮しましょう」
聖書箇所:ガラテヤ書4章1節~7節
「おとったん、こわーい!」井上ひさし原作『父と暮せば』(新潮文庫473円)のなかの、
冒頭のことばです。「おとったん」ということばから、娘の美津江と父・竹造の間にある
信頼と愛情の交流が伝わってきます。このあと、あの世から竹造が現れてきて、
美津江との互いの気持ちを伝え合う場面が続きます。被爆者である美津江は
この竹造との関係があるからこそ、それがささえとなり、ちからとなって、自分だけが
生き残ってしまったという心の重荷を抱えながら、新たな人生の旅立ちを始めることが
できるのです。
「おとったん」と、まさに全くの同質の感情を乗せて、イエスが口に上らせたであろう
とされているのが、「abba」(アバ)です。abbaとは、「おとうちゃん」とでも訳せる、
子どもが父親に対して呼び掛ける、当時のユダヤ人が日常的に使用したアラム語の言葉です。
イエスは、人間を無条件に慈しみ受け入れ、愛でるその方を、わたしのアバ、私たちのアバ、
アバお父ちゃん、と呼ばずにはおれない、アバが一番ふさわしいことば、
とするようになったのです。イエスはアバとともに暮らしていたのです。
そしてユダヤ教徒であるイエスの直弟子たちにとって、信仰の対象であるヤハウェを
abba・おとうちゃんと呼ぶことは、信仰の覚醒たる衝撃であったのでしょう、
イエスの教えの重要なことになったのでしょう。
集い、教会のなかで言い伝えられるべき宝、みなで共有する喜ばしい福音になった
ことでしょう。だから、十字架以前のイエスを知らないパウロにも、しっかりとこのabbaは
伝えられています。
パウロは紀元54年頃に執筆したガラテヤ書4:6、紀元55~56年頃に執筆した
ローマ書8:15でabbaを、地中海世界・ヘレニズムの共通言語ギリシャ語で訳すると
pateru父の意味、を付記して読み手に紹介しています。
パウロいわく私たちにはこの方のこどもとして、abbaと呼べる霊が与えられている、と。
[アバにとって私たちは目に入れても痛くない愛しいそこなわれてはならないひとりひとりです]
イエスのたとえのいくつかには共通しているメッセージがあります。“いなくなった一匹の羊を、
99匹を野に残して探すまではあきらめない羊飼い”の羊牧場では100匹が
いなくてはならないのです。一匹も欠けてならない、いなくなった羊に代えられるものは
ないのです。“1枚の銀貨を探すまではあきらめない女性”の財布にその1枚はどうしても
欠かすことはできないのです。
放蕩息子の父親にとって、次男の存在はどうしても必要なのです。
イエスは何を伝えているのか、アバにとって、アバの国で、アバの場では、
一人一人が無条件に愛しくなんとしても失ってはならない必要な存在なのです。
先日開催された日本メノナイト宣教会JMFセミナーでのBSさんのぶどう園の
あるじと労働者のたとえについてのお話に、私は深く共感し励まされました。
BSさんは、ご自分のお仕事において自殺願望を持つ方々からお話を聞くことがあり、
その方々の嘆きのひとつは、自分は誰からも必要とされていない、
この世に存在する意味をもたない者なのだ、ということ。
BSさんは、葡萄園のあるじが夕方も通りに出て行って立っている者に声をかけて
1時間働いてもらい一日分の賃金をこの者から渡していくたとえから、
あるじのぶどう園においては1時間の働き人も朝から12時間の働き人も、
みんな同じように必要な存在、このたとえにはいなくてもいい人間は一人もいない、
みんな必要とされているのだというメッセージがある、このメッセージに自分は
励まされている、そしてこのメッセージを自分が出会う自殺願望を持つ方と共に
なんとか実現したいと語られました。
どうでしょう、BSさんの≪たとえの読み≫、石谷は大いに共感、イエスに活かされている人が
ここにもいると励まされました。(ここまでのたとえルカ15章、マタイ20章)
ぶどう園のあるじには、夕方1時間働く者が必要なのです。この人たちに特別任務として、
みなが取り残したぶどう実の収穫とぶどう園農場の後片付けをしてもらった、などと想像したら
楽しいですね。ともかく、朝からの者に、夕方の者に、労働者みんなに働いてもらって収穫は
完成したのです。各人の働きの内容は違うが、あるじの葡萄園にとってはみんな必要な
働き人です。私はこのイエスのメッセージをもう少し広く受けとめ、人間の個性は多様であるが、
各人は家庭にとって教会にとって社会にとって、だれもその代わりのできない必要な存在です、
と言いたいと思います。
そうです、アデルフォイという集いには、それぞれ固有の生活の場を持ち、性質、性格、
関心が異なる私たちの一人一人がいなくてはならないのです。
自分とは違いのあるみんながいて、自分の信仰生活とアデルフォイの集いが続いてきたし、
続いていくのです。これをけっして忘れないようにしましょう。
[アバにとって私たちはつみびとではない]
アバにとって私たちはつみびとではない、目に入れても痛くない愛しい人間です。
アバにとって私たちはつみびとではないのですから、アバが私たちに罪を贖うもの、
私の罪の身代わりになるもの、を求めている、とは私は思わないのです。
このアバに応えることの中で私たちに自己反省がうまれ、自分は愛に欠けたる者、
アバの方からの愛と赦しと招きがあってこその者、という自覚が生まれることは
あるでしょう。しかし、そんな反省があろうがなかろうが、アバにとっては、
私たちは愛しい目に入れても痛くないない存在であって、
糾弾すべき罪人ではないのです、人間に贖罪を求めるアバではないのです。
私はイエスのふるまいと語りしこと、たとえにふれることでその感を深くしております。
私たちが気付けば、私たちはイエスと同じようにして、アバと共に暮らしているのです、
私たちが望めばアバとともに暮らせるようになっているのです。
[アバの肯定そして協働の招き]
山上の説教マタイ5章から7章にはイエスがこんな風に生きたらどうか、
と語った教えがまとめて記されています。メノナイト教会はその起こりのころから、
山上の説教を自分たちの生活の場で出来る限り実践しようとしてきました。
私はこの箇所を次のように読みます。山上の説教は、自分を愛でてくださる、
いつでもどんなときでも肯定してくださるアバと共に暮らすイエスのこの世での
生き方であり、イエスからの、どうだい、あなたがたも私に加わらないかとの呼びかけ、
と読みます。みなさんはいかがでしょうか。イエスの命令ではないのです、
一緒に取り組んでみようよ、という呼び掛けなのです、応えませんか、私と一緒に。
完璧を求めず、できるだけしてみよう、と。
さて、『父と暮らせば』のラストシーンです。
美津江 こんどいつきてくれんさるの?
竹造 おまい次第じゃ。
美津江 (ひさしぶりの笑顔で)しばらく会えんかもしれんね。
竹造 ・・・・・・。
「おまい次第じゃ。」と「・・・・・・。」 この終り方はいいですね、竹造の美津江に応える
満面の笑顔を私は想像します。いくつになっても愛しい娘の新たな旅立ちを祝福する父が
ここにおります。美津江の新たな自立です。
マルコの記すイエスのアバへの最後の祈り。「アバ、お父さん、あなたには何でも
おできになります。この杯を私から取り除いて下さい。しかし、私の望むことではなく、
あなたの望まれることを」。(岩波訳2004年)私はアバと暮らしているイエスの静かな
決断を思います。アバとイエスが望み選んだのは、人間を愛しむということでした。
そして、いま・ここでもアバはイエスと共に、人間はみんな無条件に愛おしい、
とのメッセージを実現しつつ歩まれています。私たちはいくつになってでも、
アバとイエスと共に暮らしていけますよ、と私はあなたにお勧めします。
2022年11月23日 石谷牧師記