6月の説教準備ノートから

 お読みくださるみなさんへ

 私の2013年1月から6月までの間のオンライン主日礼拝説教の題目と聖書箇所は

次のようでした。

●2023年1月説教

「おいしいたまご焼きの作り方を分かち合いましょう」第一コリント2章2節

●2月説教

「この圧倒的なできごとによってコリント人に、私たちに新しい成長はなるか」

第一コリント1章1節から12節

●3月説教

「晩年のパウロから届いたたより(手紙)―自分の晩年期をどう歩むか―」

第一コリント1章23節から24節、2章1節から3節 3章1節から9節

●4月イースター記念礼拝説教

「いま生きているナザレのイエスはどこにいるのでしょうか」

第一コリント15章3節から8節

●5月ペンテコステ聖霊降臨記念礼拝説教

「底抜けのインマヌエルのうちに在る、土の器の教会、土の器の私たち」

ガラテヤ書5章1節から15節6章11節から18節

●6月説教

「蒔く種と、その種を蒔く人、その種を蒔く集いは、ひとつ一体で

ありたい」マルコ福音書 a3章31節から4章9節、b4章13節から20節

≪読んでくださるみなさんの何かの参考になることを願って、

この6月説教準備ノートの中から書き出してみます。≫

 私たちは、どうもbの聖書箇所の方に注目し過ぎて引きずられてしまい、

自分は種の蒔かれた道端なのではないか、石地なのではないか、茨の地では

ないのかとばかり考えてしまって、自分の内側で育っている実りを丁寧に見つめて

感謝し、さらに豊かに実を結ぼうと明日に向かっていく、ようにはなってない傾向が

あるのではないかと感じています。私たちは、aでイエスが語られている、

蒔かれた種は必ず実っていくという、イエスの晴れ晴れとした喜び確信と希望の

呼び掛けを聞き逃している、ということではないでしょうか。

 

 私石谷において、イエスの蒔く種―言葉と振舞いとの出会い―が、どのようなことを産み出し、

どのように育っているかについての証しとして、私の最近の体験を分かち合わせてください。

≪私の内で実っているイエスの蒔く種≫

 私は5月に「丘の上の古本屋(イタリア映画2022年)」という映画を観ました。

主人公の古本屋店主が、アフリカからの移民少年との交流の中で、数々の本たとえば

『カリバー旅行記』『星の王子さま』などを無料で貸し出し、読書感想を分かち合うことを続け、

そして自分の死期を予感した店主は少年に『世界人権宣言(1948年国連総会)』を

プレゼント。この本が少年への遺言のような形見分けになるというのがエンディングの映画でした。

 映画を見終えて、私の心に響いてくるものがありました。実は私は『世界人権宣言』を

読んだことがなかったのです。そして『世界人権宣言』を読むことで、店主の少年に対することばと

ふるまいの背景、少年を励まして前途にエールを贈る姿がもっと分かるのではないか、

との直感が生まれ、そしてすぐにパソコン検索によって国連広報機関から

『世界人権宣言(1948年国連総会)』をプリントアウト。引き付けられるようにして読み、

今も机上に置いております。現在の日本と世界の終らないあれやこれやによって、

めげる気持ちは絶えないのですが、だからこそ『世界人権宣言』が目指していることを実現させて、

これからの子どもたちが『世界人権宣言』を享受するために自分のできる行動を続けていこうと

思ったことでした。

 前文と30条ある中から第1条紹介します。

第1条       すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、生まれながらにして尊厳と

権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神を

もって行動しなければならない。

 第二次世界大戦のあと、痛恨の反省から生まれたと言われる宣言、すごいことが願われています。

地球上のすべての人間が前文と全30条を享受できるようにしたいです。

 さて、なぜ、映画から触発され自分のできる行動を続けていこうと私が思うのか。

実は私はこのことが、イエスによって蒔かれた種が私の内で育ち実っているからだと思っているのです。

イエスによって私は人間の尊厳に係ることに敏感になったと思っています。私にとっての種の実りです。

そしてあなたにもきっと同じことがある、と私は考えています。

さらに私はいま(現在)みなさんとともに、私の行動の中で、行動する理由と行動内容を

周りの人たちに伝え分かち合いをしています。私はイエスによる種の実りによって、

現在自分は、その種の種蒔き人にもなっているのを感じています。

 イエスが無条件の赦しと招きを語った、行動した、それは種を蒔くことであった。

そしてイエスは無条件の赦しと招きを生き切った、まさに自分の蒔くその種を生き切った。

イエスの蒔く種と、その種を蒔くイエスは、ひとつ一体なのですね。私はイエスにまねたいのです。

≪アデルフォイのみなで蒔く種≫

誰かが、あなたたちの教会アデルフォイが蒔いている種はどんな種ですか?と問うたなら、

アデルフォイのひとりひとりはどう答えるかな、私ならどう答えるかな?いろいろな答えが

出てくるといいですね、答えがひとつ、ふたつでは残念です、アデルフォイに

加わる人の数だけ答えがあるといいと思います。アデルフォイが重層的で魅力豊かで、

ひとりひとりにとって包容力受容力があるといいですね。

私の答えは、

○私たちアデルフォイが蒔いている種は、イエスのことばとふるまい、

新約聖書と旧約聖書に親しみ、そのメッセージを分かち合う、

そして自分もそのメッセージに生きたい。

○人を個人として重んじ大切にする、です。

 アデルフォイで蒔いている種と、アデルフォイである私たちは、

イエスがそうであったように、ひとつ一体でありたいです。

 

        2023年7月10日   石谷牧師記

 

 

 

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