第14信「いま・ここで、イエスならどう動かれるだろうか」

 イエスに捧げられる弟子たちの賛美、これをたしなめた人々に対する、「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」というイエスのことば。(ルカによる福音書19章40節)

「石が叫びだす」ほどに、イエスが生きていた状況は、イエスとその周りに集められた者たちにとってなんとかせねばならぬ、自分の尊厳を踏みにじられている状況であったのであり、その中で果敢に行動していたイエスがエルサレムに入城するとき、人々は歓声を上げて迎えたのでした。ひるがえって、私たちの「いま」「ここ」はどういう状況でしょうか、私には、私たちが叫ばねば「石が叫び出す」というイエスのときに似た、なんとかせねばならぬ状況という認識があります。


イエスが生きていた状況。それは、ユダヤ教、律法、神殿体制が絶対化され、これに近い者たちが高位に座るという人間の序列化が進んでいたと言えば分かり易いのではないでしょうか。そして絶対化され、神聖化されたものから遠い人々の存在は軽視されている、そしてこの構造が再生産されていくという状況。たとえば、病気持ちの人間は罪をもって「生きている」、子どもは未熟さをもって「生きている」、ギリシャ人・ローマ人は異教徒として「生きている」、こうした人間たちを底辺、枠外に置き、一人前のユダヤ教徒は、この者たちを自分の隣人としてはいけないと考える雰囲気濃厚な状況だったと私は思います。多くの人々は「生きている」の前にあるその人間を修飾することがらに関心を注いで、自分の隣人か隣人でないかを決めていたのです、それが当然の雰囲気だったのです。

 ところが、イエスは、神はこのような状況を望んでいない、むしろ人間が「生きている」ということがどんなに神の喜びであるかとの示しを受けて、この状況を変えることに挑戦していったのです。神に省みられない人間が存在する、と決めつけることは間違っており、むしろこの者たちが喜び生きることが神の望みだとイエスは語り行動で伝えたのです。

イエスの語りと行動はユニークでした。けっして、ちから・暴力を使わないのです。しもべとして仕えていくことで、出会う人それぞれの生きて在ることを尊び、「生きている」ことを尊重しました。イエスと出会った者たちは、イエスに接近していく自由、離れていく自由を認められていました。こうしたイエスの言葉と行動は、構築された宗教上の序列を武器に権力を行使することで社会的地位を保持し、既得権益を保持している者たちを結果的に鋭く批判することになりました。

地の民、罪人を作ることで権力と利益を我がものにできていた者たちは、イエスに敵意を持つようになり、まもなくこの者たちによって、人間が生きていることを大切にしようとした、ちからを使わない、ゆえに非暴力の、イエスは殺されたのです。すべての人間のいのち・尊厳を重んじることはしない、それを再生産していく構造は、それを維持するために暴力装置を備えます、これは世の常です。そしてこの構造を変えようとする者は暴力、ちからに頼ることをしないのですから、必然のようにして、ちからに頼る者によって倒されるのです。


人間には確かに自由がある。すべての人間のいのちを重んじることはしないという自由、イエスを殺害する自由もある。しかし、その自由は、本当は、自分が生きていることを大切にすること、そして隣人が生きていることを大切にするために用いることが期待されている自由と、私はイエスを通して教えられています。


さて、現在私たちはこの自由をどのように使っているのでしょうか。自由を、自分の幸い、ちからと富の追求に使っている、のがイエスの状況に似た私たちの現実なのではないでしょうか。


いま、ここで、イエスはどう動かれるか、との問いを持ちます。

 


『人間の分限を超えて、自然と隣人である人間を搾取し、自分の欲望・利益を実現することを優先していることがさまざまな人命軽視、人権侵害を引き起こしている。』これはペシャワール会の中村哲さんのことばです。(『天、共に在り』2014年 NHK出版)

私は自由を備えている「個人」に注目します。

私は個人主義には「本当の個人主義」と「利己的個人主義」があると考えます。自分を大切にし、自分が大切にされることはわたしたちみなが求めていることです。個人を尊重する「個人主義」です。

「本当の個人主義」とは自分が大切にされるように、周りの者も大切にされることを求め、自らも周りの者を大切にするということです。これは共生や共同体を生み出していきます。しかし現実には私自身をもちろん含めて、個人主義は「利己的個人主義」に陥るのではないでしょうか。私たちは自分を大切にするようには、周りの人間を大切にしない。だから、私たちのできることは自分たちの「利己的個人主義」に敏感になって抑制し、社会にその行為を見つけたら指摘し直していくことです。たとえば、次のようなことは「利己的個人主義」が日本国中に、私たちに蔓延していることから引き起こされているのではないでしょうか。

  ・福島原発事故における、こども被災者支援法の適用の不十分さ

  ・非正規雇用の放置 貧困・格差社会の放置

  ・日本国籍を持たない外国人に対する差別

  ・沖縄の地方自治体からの建白書の無視 政府のアメとムチによる基地の押し付けが続く現状


このような状況認識を持って、私は自分のできることを次のように考えています。


まず教会という場。

教会にはそれぞれの必要と関心を持った個性豊かな人間が集まっています。一人が自分の主張を絶対化して仲間に押し付けるようなことがあっては断じてなりません。お互いの行動を認め合うことです。これを基本にして、お互いに協力できることを見つけていく努力は惜しまないようにする。このことを踏まえて私は次のことを心がけています。


a.2011年3月11日までの私の礼拝説教は、政治が国民のいのち、暮らしを軽んじることがあるのを考慮しない能天気なものであった。これでは教会員、周りの人たちがいのちと暮らしを守ることに寄与できるには足らない。なぜなら福島第一原発事故による被曝を避ける上で重要な情報は、政府によって住民に隠されたという事実がある。そして3年余に渡って年間空間放射線量1ミリシーベルト以上の地域で暮らしていくことを受忍することを仕向けていく政治が続いている。

 2011年3月11日以降、私は礼拝説教で、政府・行政が市民のいのち、暮らしを軽視する現実のあることを踏まえて、市民が自らいのちと暮らしを守る意識を持つことの大切さ、政治の動きに関心を持ち必要な場合は声を上げ街頭に出ていく大切さを語るようにしています。

現政権権力者も積極的平和主義、国民の命と暮らしを守るということばを使う。武力によってそれを実現しようとするちからの信奉者と私たちが同じ言葉を使っている、で終っていてはいけない。私たちのいのちと暮らしを守るイエスから示されるメッセージを求め語っていかねばと思います。


b.いのちてんでんこ・自分たちのいのちとくらしは自分たちで守っていく、守っていける社会を作ろうとの思いを共有する教会を作っていきたい。教会員は選挙等によって国政に参加していく責任を分かち合い、周りの方がたにいろいろな方法で発信する。

 

c.「本当の個人主義」は自分と隣人を愛する愛にまで深まり、誰もが幸福を実感できる社会、共同体を生み出すが、教会において、自分の身近な場において、まず「本当の個人主義」を育て合い、深め合い、分かち合い、広げていく。


一個人としてできること。

a.私のメッセージを、直接お会いできない方にも聞いていただきたいと考えて、当JMFホームページ、2013年からフェイスブック、2014年からは教会ホームページを使って、国政へ関心を持つことを促す、選挙に行く促しになるような発信をしている。


b.ヒロシマはなぜ起きたのか、を学び続ける。三度目の核兵器の使用は起こさないために、被爆者証言の継承に取り組んでいる。この取組みの中で分かってきたのは、敗戦後に憲法で市民にゆるされた国民主権を大切に行使していく「良き市民」が育っていくことが大変重要なこと。やがて担当する被爆証言では、「良き市民」が育つことを願って、被爆者からのメッセージを柱にて、これに加えて聞き手が政治に関心を持つようになる「種」を入れた被爆証言活動に取り組みたい。

世界で初めて放射線で人間を殺すことのできる大量破壊兵器・核兵器が作られ、保有されている。この非人道兵器を告発し廃絶する運動に参加していく。


c.国・公がつくことばが使われる時には、たとえば、国益、国家、公益など、本当に国民を第一に大切にしているのかをよおく吟味する。


d.特定秘密保護法、原発再稼働、憲法改正に反対する。


 現在の日本の社会状況の中にイエスならば何を見つめて動かれるだろうか、そのイエスを私が継承するということを念頭に書かせていただきました。お読みくださる方がいますことは私にとって大きな励みです、ありがとうございました。

(2014.6.12記)


以上

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