(8月24日(日)主日礼拝は20日に発生した土砂災害によって
被災された方々を想って礼拝を捧げました。)
私は11歳と2歳の兄弟の葬儀の様子を伝えるテレビ放送を
悲しい気持ちで見つめていました。子どもを失ったご両親、
兄と弟を失ったまだ小さな少年の心境を推し量ることはできま
せん、言葉を見つけ出せませんでした。そして、
ひつぎを乗せた車に向って同級生、サッカー仲間の子ども
たちが号泣する姿に、私はおもわずもらい泣きしたことでした。
「泣く者と共に泣きなさい」(ローマ人への手紙12章15節)。
悲しみ嘆き涙にくれる人のそばに私たちのこころを置くことが
できればと願います。
そして、そうするなかで、わたしたちへしめされること
を感じたら、それを実現するために行動を起こそうではありませんか。
聖書箇所としてルカ福音書7章11節から16節を選びました。
イエスが過ごしたナザレから、南西に位置するナインという町、
そのナインに宣教の旅の途上で到着したイエスは、
一人息子を失い葬りに出す寡婦(やもめ)と
付き添う人々に出会ったのでした。
イエスはやもめを見て、彼女に対して腸(はらわた)がちぎれる
想いに駆られたとあります。はらわたがちぎれる想いということば
(splanchnizomai)は、イエスが人たちにどのように接したかを
考える際に意味深いことばだと私は思っています。イエスが、
目を見えるようにしてくださいと願った二人の盲人に対したとき、
飼う者のない羊のように弱りはて倒れている群衆を見たとき、他で
のイエスのこころを表すことばとして使われています。
悲しみ苦労し涙する者への深い同情をよせるイエスは、
はらわたがちぎれるような想いとなり、そのなかで
彼、彼女に対する自分のできることをしめされていくのです。
そして実現に努めるのです。このようなイエスから、
悲しみ苦労する者は、そのとき必要とした生きていくための
励ましを得ることができました。
私たちにはそれぞれにしめされること、うながしがあることでしょう、
声を掛け合いながら、助け合いながら実現していきましょう。
早速に私たちの県外の友からこの礼拝堂に寝泊まりしてボランティア
をしたいという嬉しい申出がありました。
この友の行動に私たちも精一杯加わっていきたいと思います。
土砂災害に遭われた方々、いま救援に入っている警察、消防、
自衛隊の方々、この働き人を送り出している家族を覚えて祈りましょう。
(2014年8月25日 石谷牧師記)