新約聖書ルカによる福音書17章11節~21節
そのひとりのサマリア人らい病者はイエスと出会ったとき、いったい
どんな気持ちだったでしょうか。
彼は、部族的にはサマリア人とは憎悪と反目の関係にあったという
ユダヤ人、のらい病者九人とともにおりました。らい病を発症した彼が
生きていくためには、集団のなかの片隅にでもいた方が食糧等を確保
する上で好都合だったと推測できます。
その彼がユダヤ人イエスと出会います。願いはもちろんらい病からのいやしです。
「イエスよ、わたしを憐れんでください。らい病から解放してください。」
その心境とは。
私はらい病から直りたい、
だが私はサマリア人だ、ユダヤ人のイエスが、そしてユダヤ人の神が
私をいやしてくれるだろうか、という疑い。
いや、そうではない。神の前に、ユダヤ人もサマリア人も男も女も
成人もこどもも義人も罪ある人もないのだ、みなを恵まれる、という疑いの打ち消し。
私はこの人は、このとき三重苦のなかにいたと思います。
サマリア人という差別される側にいる。
同じサマリア人からも、らい病を発症したために追い出されて、ものごいの
ようにして生きている。
生きるために身を寄せたユダヤ人らい病者のなかでも、ひとりである。
食糧を分けてもらうことから始まって、肩身の狭い思いでいたのではないか、と
私は想像します。
そういう彼が、自分は直りたいと思う、もう一度家族のもとに、地域社会のもとに
帰りたいと思う、この思いは切なるものであり、
イエスが当時の取り決めであった、らい病からのいやしを祭司に証明してもらうために
祭司のもとへ行け、と命じたとき、
自分も直してもらえるのだとの期待はいっそうつのり、疑いを打ち消し打ち消し、
祭司のもとへ急いだのです。
そして、まだ祭司のもとにたどりつく前に、全身にらい病からのいやしを実感した。
たんにらい病からいやされたことでない、いままでの自分の世界に、
「自分は自分も恵まれている」という実感が突入してきたようなめざめ・覚醒。
そして、すぐに、もう祭司のもとには行かずに、イエスのもとへ戻ってきた。
イエスはひとりの人に言うのです。
「立ち上がって、歩んでいきなさい。あなたの信があなたを救った。」
ユダヤ人もサマリア人もない、神は全ての人間のいのちに眼をかけ恵まれると、
こころに感じたこのひとりの人の願いどおり。願いは信でしょう、そして
疑いは打ち消されるのです。
「神は全ての人間のいのちに眼をかけられ恵まれる」とはイエスのさししめした福音、
神がイエスをとうして私たち人間にしめされている神のこころ。
だから、このひとりの人は、いわば福音に出会い、神に出会っているのです。
安んじて、立ち上がり、あなたの出会っている福音のうちに、福音をたずさえて、
あなたの道を歩んで行きなさい、できうれば、わたしたちも
このひとりと同じような促しに生きたいものです。
さて、九人はどうなったのでしょうか。
この人たちもらい病を発症したことで困難と悲しみの中にいたのです。
らい病者は感染を恐れられて、民の中から追い出されて、健常者との接触を
禁じられ、食糧を恵んでもらって生活をしていました。イエスと出会ったときも、
彼らは「遠方に立って」声を挙げて「私たち憐れんでください」と願ったのです。
そして、祭司にいやしを見せに行く途中で、いやしを実感した。
そして、祭司に証明してもらい、家族と地域社会のもとへ帰っていったと思われます。
けれど、この九人はイエスの福音には出会っていない。
この九人は神には出会っていない。
サマリア人らい病者のいやしを間近に見たにもかかわらず、感動も自分への省みも、
サマリア人と共に喜び一緒になってイエスの元に戻ることも、何も起こっていない。
ただ、自分の願っていたことが実現した、それだけのことです。
こののちも、サマリア人を見る目はいぜんとして憎悪と反目だったかもしれません。
なぜ、こんな事態になるのでしょうか。
福音に出会っていながら、九人の福音にはなっていない。
福音は私たち人間にどう受けとめられていくか、厳粛な人間側の事実がここには
あると思います。私は、私たち人間には恐るべき自我と自由が与えられていると、
思っています。
さてさて、私たちのことです。
今やすでに、ユダヤ人もサマリア人もギリシャ人も日本人もないのだ、
男も女も成人もこどももない、義人も罪人もない、どんな人間のいのちも
神のまなざしの中で尊く、神みずからしもべのすがたとなって大切にされている、
という福音、が分かっているひとりでしょうか、わたしは、あなたは。
願ったことを体験して、それで終りにした九人でしょうか、わたしは、あなたは。
わたしは思います。
この世界、この日本社会、なんと大切にされていない人間のいのちがあることか、
わたしは九人のようではあろうとは思わない、大切にされない人間がいてもよいという
社会にしたくない、そういう社会を次の世代という隣人にも受け渡したくない、
自分のなかにある、強い九人への傾きには抵抗したい。
しかし「傾く」自分がいるのが分かっているので、
欠けなく十分に福音を生きている「ひとり」ではない。
わたしは、自分は「ひとりと九人の間を」生かされていく、と思っています。
あなたはご自分のことをどう思われますか。
あなたと語らう日を楽しみにします。
2014年11月24日 石谷牧師記