今から40年前のクリスマス主日は12月22日でした、私の受洗記念日です。
なぜ、洗礼を受けたのか。社会人になることを考えるころになって、
自分は人の幸いに用いられるようになろう、というような気持ちが与えられ、
そのように導かれたのが学校と教会でのキリスト者との出会いと、教会での
聖書の学びによることが大きいと感じ、その感謝と決意表明のような気持ちで
洗礼を受けることにしたように思い出されます。私は19歳でした。
それから40年たっても聖書を読みながら、イエスの弟子でありたいと願って
の生活をしているのですが、それはどうしてなのか。私の経験は、
マリアの夫、イエスの育て親とされているヨセフの物語と重なります。
どうぞ聞いてください。
(マタイ福音書1章と2章から)
そのときのヨセフのまなざしは水平方向でした。自分と周りの人間たちしか
視野にいません。周りの者たちは、道ならぬことをしでかした結果のマリアの
妊娠としか考えないのです。そんな不品行なことは許されない、しかるべき
罰を与えねばならない。周りの者たちは、そのように考えることだろうとヨセフは
思いました。そして自分も、婚約者マリアに裏切られた怒りと悲しみにおちいります。
自分の中にある正しさの基準からもマリアを受け入れることはできない。
けれどマリアとその胎に宿った命に対して、自分はマリアとの縁を切ることで
良いのだろうか、マリアと胎の命はどうなるのか・・・ 悶々とした時間が流れます。
自分の中にある正しさを求める思いと、マリアを守ってやりたいという
愛の心が葛藤して、晴れやかな気分で日を送れない、救われないのです。
のちにヨセフは、その地域の王様ヘロデの権力にものをいわせた暴力行為に
直面します。ヘロデもまた水平方向の視線に終始した男です。自分と周りの人間しか
眼に入りません。新しい王となる男の子が産まれたと三人の博士から聞いたヘロデは
不安になり晴れやかになれません。自分の利益にならない者はつぶさねばならない、
自分を中心にして周りの人間を、利益になるか、不利益をもたらすかに分けるのです。
ヘロデはいつ自分を脅かす強敵が出てくるか、絶えず見張る緊張した日々、
晴れやか気分では日が送れない、救いがないのです。
人は水平方向の視野に見えるものだけによっていては、平安はないのではないか、
救われないのではないか。
ヨセフにはことばが与えられました。マリアの胎に宿った命は、やがて人間を救う者になる、
恐れずにマリアを妻としなさい。その時まで水平方向の見えるものの中で悶々としていた
ヨセフは、この外からの、上からのことばと言いましょうか、このことばによって惑いない者に
変貌することができたのです。すぐにマリアを妻とし生まれる子を守りました、ヘロデの暴力が
迫ったときには、ふたたび与えられたことばに従い妻子を守ってエジプトに逃げました。
「この子は人間を救う者になる」のことばに生かされて、その後の行動に、ヨセフは不惑、
惑いなし、です。
ユダヤに新しい王、人間を救う王が産まれた、
と星に導かれて東方の国からやってきた三人の博士たち。
かれらの視線も上方、天に向いています。星の導きに信頼して平安な旅をしてきた
博士たちは、最上の宝物をイエスに捧げてふたたび平安と喜びの内に自分の国への
旅を続けます。
近視眼的なことに明け暮れし眼の前のハエを追い払うのに苦労する私たちです、
だからこそ時には大空、星空を見上げ、大きな雄大な不思議に満ちた宇宙と人類の
誕生のなかで自分たちの生きていることを思うことをしたいな、
私たち安らかになって日常に戻れるのではありませんか。
ヨセフは自分に与えられたことば、博士たちとの出会いによって、
神は人間を愛し、ともにいようとしてくださる、ということを知ったのだと思います。
神われらとともにいる、そしてそのわれらとは、惑うヨセフであり、あのヘロデあり、マリアであり、
三人の博士であり、・・・1時間しか働かない者、放蕩に崩れた者、その姿をさげすむ者、
迷い出た羊のようなありさまの者、思慮浅い者、配慮のできない者、
自分のことしか考えない者、律法を守る者、守っていない者・・・
すべての人間とともに神の愛あり神はおられる。
そして、ヨセフは自分の最良の宝物、こころとおもいとちからを尽くして、
神の人間を愛する働きに加わる人間になった、惑いなく参与する人間となった。
私はこのヨセフの物語に自分を重ね合わせるのです。
私が自分と周りの人間だけを見つめていけば、自分のなかには、自己嫌悪、
情けない自分、いたらない自分、多方面で欠けを持つ自分、それでいて、
良く生きたいと願っている自分があって悶々として、自分はなんとみじめな
人間なのだろうと(ローマ書7章)、どこか晴れやかに朗らかになれないのです。
他の人間を見ても、みな欠けを抱えているにもかかわらず自由を持っており、
その自由を使って自分の欲望の実現を追求し、人を殺害することさえする
と、どこか人間不信であり誰もは愛せないという、とらわれは尽きることはないでしょう。
たとえば、このたびの衆議院選挙の結果に、私は国民、この社会、世相に
対して残念さ情けなさを、まず感じました。選挙にいかない有権者を責め、
福島原発事故の体験が続いているにもかかわらず、原発再稼働を進める政党に
どうして投票するのか、自分の脱原発の願いのなかでの悶々なのです。
しかし、私たちは、自分と他の人間だけを見ることで、悶々とし、心萎え、
失望していくような状態を突き抜けたい。人間を愛する者でありたい。
自分を含めて、欠けを抱えて生きている人間みなが「愛されている」
「赦されている」、人間の救い、幸いと平和を作り出そうとする神の働きに加われと、
みなが招かれているのだ、という立ち位置にどんなときも戻りそして立ちたいのです。
力づくで、あなたは愛されている、許されています、と言い聞かせることはしません。
強制されて、自分は許されている、愛されている、と信じ込まなくていいです。
でも私はこの40年間、自分のしたことしなかったことを、人たちに許されてきたこと、
ひとたちの善意と配慮、導きを受けたことを振り返ります。
私は人たちの許しと配慮のなかで、私と人間に対する神のゆるしと愛を感じ
信じるようになったのです。
そして40年の間に確信のように示されていることは、
「人間は誰もが欠けを持って在る。
しかしそれは神の愛の中に受けとめられていること。
神にとってはその欠けある人間が大切なのだ。
人間を大切にする神の働きに加わる者となれとの招きあり。」
私は、みなさんひとりひとりが大切な存在であることを、
ことばと行いによって証し続ける者でありたいと願っています。
神はあなたを愛されている、神は人間を愛されている、
神はわれらと共にあり、というクリスマスのことばのなかに
あなたがいます。
2014年12月22日 石谷牧師記