ルカ福音書19章1節から10節によれば、ザアカイはイエスに出会い、イエスが
自分の客になってくれることを通じて、大きく生きる方向を変えた。自分で自らの
なすべきことを考える者になり、自分のできることを実行しようと決断した。
ザアカイは、人間は不正をして他の人間を苦しめてはならない、だから自分は
他の人間に何ができるか、社会に対して何ができるかと生き方を変貌させた。
イエスはそういうザアカイを認めてこの人はアブラハムの子になったと言った。
自分の生きる現実の中に、抑圧と不合理と不公正を認めてそれを克服する
方向に自己を決意する、そういう個人へとザアカイは変えられた。
いつの時代も、どんな国、社会においても、求められているのは「ザアカイ」のような
人間ではないか。なぜならば、私たちの生きる現実には弱い立場の者たちへの、
抑圧、不合理、不公正がはびこっているからである。
だが幸いなるかな私たち。「ザアカイ」は常に起こされていく。私たち人間はいつでも
「ザアカイ」に成る可能性を持っている、いまこの時にも自分も隣り人も喜び生きる
ことを求めて働く者は常に起こされる。私たちもそのような個人に成っていきたい。
私たち一人ひとりの国民が日本社会の現実のなかに抑圧と不合理と不公正を
認め克服しようとするならば、国民主権は実質となり民主的な政治が始まる。
全ての出発点は、私たちがどういう考えと行動をする個人なのか、である。
この数年顕著になったことは、私たちの、情報を得る場と教育の場と思想・信条・
宗教心を自由に育む場とを、政治権力が牛耳ろうとする傾向である。私たちの国の
歴史から学べばこの傾向はたいへん危険である。私たちの国の歴史において、
この三つの場が政治権力に牛耳られることによって、イエスが示している、そして
他の宗教も教えている、自らと他者への尊厳意識を持つ個人に成っていくことが
奪われたのである。
ザアカイの生活した状況も、いまの私たちの状況も、自らと他者への尊厳意識を持ちにくい
ことでは似ている、だからこそ、「イエス」を告げる者よ来たれ、「ザアカイ」よ生まれよ。
2015年8月27日 石谷牧師記