広島市内を流れるころには、太田川はゆったりと静かな流れになります。
満潮の時間帯は流れは上流に向かいます。水位が十分な時を見計らって人たちが
サーフィンの形をしたボードに立ってオールを漕いだり、座って漕いだりしてゆったりと
水の上の移動を楽しんでいます。ボードを使えば水の上を移動できます。
さてさて、それでは何も使わずに水の上を歩けるか。
福音書にはイエスとペテロが水の上を一緒に歩いている様子が記されています。
(マタイによる福音書14章22節~33節)
そんなことはありえない、そんなことはできない、私たちの生活の場においてそんな
ふるまいはできない、常識をわきまえなさい、私たちの社会でそんなことをしたら非難されてしまう・・・。
というような声が聞こえてきます。
私はこの物語を、
いま、ここで、人間のことがらに終始しがちになる弟子たちそして私たち、その代表であるペテロと、
いま、ここで、アッバ父のことがらに生きようとするイエスとの出会いと共同行動が、共に水の上を
歩くということ、と読みます。
弟子たちからみればイエスの生き方ふるまいは、あたかも水の上を歩くような異次元の
姿のように感じるのです。イエスは、アッバ父が、人間に対して条件、業績、所属他をいっさい問わず、
かけがえのない人間として恵み愛し導き生きることの喜びに充満させようとしてくださっている、ことを
いま・ここで、証言し実現しようとしています。このイエスに信頼して、ペテロはイエスと共にあろうとして、
船を後にして一歩を踏み出しました。「船」とは何でしょうか、私たちの常識に捕らわれたそんなことできる
はずがないという「こころ」でしょうか。そしてペテロはイエスとともに、イエスのメッセージを我がこととして、
水の上を歩くことができているのです。イエスの福音は異次元のように感じていたが、しかし、そうではなくて
確かに、いま・ここで生きることができるのです。
しかし残念ながら、ペテロも私たちも、イエスのできごとではない現実に直面し続けねばなりません。
ペテロは水の上を歩けていたのに、強い風を見て恐れに捕らわれたちまち沈んでいきます。
イエスがペテロを助けて言ったことば。
「信頼の薄い者よ、なぜ疑ったか」
アッバ父がイエスに託し、イエスがことばとふるまいとで示したメッセージ、「何よりも人間の尊厳といのちを
重んじて生きよ、愛することに生きよ、わたしがそうしている」。
これは、いま・ここで私たちが生きることができるのだと思います、あたかもこの世では水の上を歩くことの
ようではあるけれど、確かにイエスがあの時代を歩き、ペテロも実際に歩いたのです。
そしてその後も数えることのできないほどのイエスの弟子でありたいと生きた人間が生まれ、この世の現実では、
あたかも水の上を歩いたかのような働き・生涯であったのです。
私たちも勇気を出して、イエスのことばとふるまいに生きましょう。
人間の世に愛と分かち合いと赦しと和解を充満させることのできる、生きる道です。
2016年7月9日 石谷牧師記