ルカによる福音書10章38節~42節。
よく知られたマルタとマリアの姉妹の物語。
私は接待に一所懸命の姉のマルタの気持ちが良く分かりますが、やっぱり、
イエスが姉を手伝わずにイエスの話を一心に聞いている妹のマリアを
叱らなかったこと、良かったと思います。
姉妹といえども、姉と妹はそれぞれの尊厳と経験を持っていて、自由に自分の生きる道を
作ることができるのです。このことを了解し合っての姉と妹の協力と協同作業ならばいいのです。
このことは姉妹という関係だけではなく、夫婦でも親子でも教会の仲間の間でも、友人や知人との
関係においても大切なことです。むつかしいことですが、親しい者の個人性、その自由と尊厳を
尊重する姿勢ではおりたいと思います。
マルタは接待の繁忙さのなかで、マリアは独自の考えを持つ、持っても良い自由を備えた独立した
人間であることを見失ったのです。姉妹というあまりにも近しい間柄のために思い及んでいなかった
かもしれません。しかし、家族といってもひとりひとりは個人、独立した人間なのだということを前提に
して尊重しその上でお互いの歩むことを応援できたらどんなにいいでしょうか。
教育の現場もそうだと思います。生徒たちひとりひとりは自由に自分の歩む道を作っていくことの
できる尊厳を備えて生まれてきたのです。国が大人が思想、習俗・習慣を強制するようなことを
してはならないのだと思います。
イエスはマリアの自由な行動を止めることはしませんでした。
一人の人間の持つ重さ、その自由な選択・行動を何よりも大切にしよう、私の思いを押し付けては
いけないのです。
私たちは身近な人との関係にこの物語を活かしていきたいと思います。
2015年7月8日 石谷牧師記
いつからこのようになったのか、人間の生活の場にちからによる支配がはびこって
いるのです。個人と個人の関係、個人と集団・組織との関係、組織・国家間においても、
ほっておくと、目覚めてそうはならないようにと努めていないと、ちからの支配が出現してくる
のです。この現実を認めつつ私たちはどうすればいいのでしょうか。
私はヨハネ福音書19章25節から27節の物語を興味深く読みました。
イエスはユダヤ教指導者層から憎まれてしまいました。この人たちは組織だって動き、
イエスを捕えます。そしてイエスを死刑にするためにローマ総督のピラトに突き出します。
ピラトはイエスに犯罪性を認めませんが、ユダヤ人を沈静化するために、イエスの死刑を
決定します。ピラトはイエスに対して、自分はお前を釈放することができるし、死刑にする
こともできると告げたのでしたが、まさにちから・権力を持つ者は、合法的に自らの利益を
追求・優先しこれを実現するために人を断罪できるのです。
こうしてイエスはユダヤとローマの権力者たちから十字架刑にされたのです。
そのただ中にあるヨハネ福音書19章25節から27節です。
イエスは十字架上から一人の女性弟子と一人の男性弟子に対して、この女性はあなたの
母である、この男性はあなたの息子であると語りかけます。私は次のことを読み取ります。
イエスが殺害された後もイエスを殺害した者たちの支配は続くのです、
弟子たちは自分たちを憎む者たちに、迫害する者たちに直面し続けます。
弟子たちが直面しているのは、ちからを持つ者たちが自分たちに都合よく個人の存在を
取り扱う現実です。個人の存在が軽く扱われるのです。
しかしそういう現実は変わらずとも、人間のさいわいのありかととして、人間の喜びとして、
人間の生きるみなもととして、人は愛の交流をしていくようにというメッセージがここにあると思います。
愛は人間を重んじるのです。人間の存在を重んじる人は愛を知るようになります。
憎しみと保身と権力・暴力を使った利益の追求が渦巻き続く現実を生きるなかで、
いつも愛の交流を大切にしよりどころにしたイエスの静かな確信がここにはあります。
この物語が語ることは、キリスト教会、クリスチャン、いえいえ、
信仰者であるかどうかではない、私たちみんなへのメッセージではないでしょうか。
私たち人間の歴史を振り返れば、権力を持つ者が市民の存在を軽んじたことによる
できごとは数え挙げることができないほどにあります。
また、現在の日本では法律を作る権力を持つ者が、合法的に市民の存在を軽んじる
政策を立法化し推し進めているではありませんか。
この裏返しには、私たち自身が自分と隣人の存在を軽んじていること、
それゆえに権力の専横を批判できず受忍しているという現実があります。
この状況から、個人の存在が重んじられるようになるまでには、どんなことが必要か。
私は時間が流れれば実現するようなものではないように思います。
人と人が愛の交流を深め広げていくことで、個人の存在を重んる雰囲気、
文化のようなものが作られていくのだと思います。
写真はアデルフォイのナスの実です。アデルフォイの菜園は今年二年目です。
ナスの実は細く数も少ないのです。私はナスをまるまると実のらせた近所の畑を見て
痛感しました。土の質が違うのです。アデルフォイではついせんじつまで樹木が
植わっていた庭園を菜園にしたのですが、
アデルフォイの土はまだまだ野菜が育つ土になってはいないのです。
敗戦から70年の私たちの政治状況、私たち市民社会の現実は、
まだまだこれからなのだと思います。
平和主義、国民主権、基本的人権を具体化することよりも、
政治権力者の趣向の方が法律になってはなりません。
これからも私たちは厳しい現実に直面していきますが、
それはイエスも直面し、人類・私たちの先達も直面したことです。
どのようにしていけばいいか。
愛の交流を大切にしよりどころにして、個人の存在を重んじることを私たちから実行し、
個人の存在を重んじる文化を深め広げていくことです。この文化が豊かに育まれることで、
私たち市民はそのときにふさわしく花を咲かせ果実を収穫していくのだと思います。
先ずは家庭において、私たちと周りの人との関係において、そして教会において、
私たちから個人の存在を重んじることを始めていきましょう。
2015年6月27日 石谷牧師記
6月から8月までの集会の予定をお知らせします。
主日礼拝 午前10時30分~
◎アデルフォイ 6/14,6/21,6/28,
7/5,7/12,7/19,7/26,
8/9,8/16,8/23,8/30,
※石谷は6月7日(日)は他集会参加、
8月2日(日)は宮崎県の霧島兄弟団を訪問します。
この主日は家庭礼拝をお願いします。
◎アデルフォイアシュラム(第2、第4月曜日)午前11時からです。
沈黙と黙想、共同の祈りと対話のひとときです
6/8,6/22,7/13,7/27,8/10,8/24
◎土曜日集会 6/6,7/4,8月はお休みです
◎第8回平和セミナー 9月20日(日)~22日(火)
◎読書会毎月1回 日程は石谷へ問合せください。
◎石谷牧師ジュノーの会への協力日 毎月第2、第4土曜日
以上
(ペンテコステ、聖霊降臨礼拝でのメッセージ)
私たちが共有している願いがふたつあります。
ひとつは、イエスのことばと行動から自分への赦しと招きを知っている私たちは、
それを生活の場で活かすことを願っている。
ふたつめは、自分の生きる意味が、他の人にあることを知っている、信じている。
だから精一杯生きることを願っている。
マタイ福音書18章21節以下。
ある時ペテロが自分たちは他人を幾度赦さねばなりませんか、とイエスに聞きました。
それに対して、イエスは7の70倍まで、どこまでも赦しなさいと答えます。
このごろ私は思います。
私がその人のことを赦さないでいる間、私はその人に引きずられている、その人への
憎しみ、怒り、思い出すことでの不快感で嫌になります。忘れた方が身のためになって
いるのですが、赦さないといつまでもその人に引きずられている自分がいます。
赦さないと、私は自立していない、自由ではないのです。
他人を赦すことができないペテロにイエスは、たとえを語って、実はペテロこそが、
私たちこそが、どんなに赦された者であるのかを語ります。1万タラントンの負債ある者が、
この金額は6000日分の賃金の1万倍という桁外れの金額なのですが、貸し手から負債を
帳消しにしてもらったにも関わらず、賃金100日分の借金を自分にしている友人への取り
立てを激しく行う姿を描いているたとえ。
私は自分のことを反省すると足らない自分の姿が次々に出てきてしまいます。
約束の時間になっても人が来ないとなげくことがあります、
でも私自身、駅までの所要時間の目算をを誤って乗り遅れたことが何度あることか、
スケジュール表を良く見なかったために所定の日時に行かなかった失敗もあります。
そんな数あることから始まって、根本的にある私の愛の足りなさ、あるいは長いものに
まかれてしまう情けない弱さ。そんな私がみなさんから赦されて今の私が在ることを
知っています、だからすこしでも赦す者でありたいのです。
自分の生きる意味は、自分は知ることができず、それは他の人にある、他のひとが
知っているように思います。
マルコ福音書15章33節以下。イエスは「エリ、エリ、レマサバクタニ・わが神、わが神、
なぜわたしを見捨てられたのですか」と十字架上で絶叫します、そして息たえて死にます。
自分の生きる意味を最後まで求めたイエスの姿、分からなくなってしまったイエスの姿が
入り混じるようにしてえがかれています、そして死。
直後、この姿を見ていたローマ兵が「まことにこの人こそ神の子であった」と語り、
また幾人かのイエスの女弟子たちがじっとイエスの最後の姿を見ていたとあります。
そしてこの女たちはイエスの復活を体験していくようになっていきます。
イエスの生きた意味はイエスには明らかにされず、周りの者たちがその意味を知るようになる、
ということです。この福音書を書いたマルコもその意味を知る者のひとりですし、私たちも
同じようなのです。
自分の生きている意味を問うて生活しているのではないと思われる人、たとえばおさなご。
おさなごの存在は実に大きいです、周りの大人たちを和ませてくれます、成長の過程は
大人に新鮮な驚きを与えてくれます。大人はおさなごに自分を重ねてお世話になった方への
感謝に導かれます。あさなごの生きる意味は十分に周りの大人たちにあります。
たぶん私たちが考え及ばないくらいに、あなたと私の生きる意味が周りの人にあるのだ
と思います。だから精一杯生きていかなくてはと思うのです。あなたの生きることによって、
大切なことを知らされたり考えたり深められたりする人がいるのです。
あなたは自分を大切にして精一杯生活していけばいいのです。
あんまり自分の生きる意味を問わなくてもいいのではないでしょうか。
今日の一日が、赦しに生きる生活となるように、そして精一杯生きる者であるように、
これをあなたと私の共有する祈りにしようではありませんか。こうした生活、歩みができるのは
社会にそれを認める文化があってのことです。だからこそ、この祈りが台無しにされるような
環境ではなくて、祈りが分かち合われ共感される社会的雰囲気、文化を作っていきたいのです。
またこうした生活をわたしたちにだけが選べるのではなく、世界中の人たちが自分の生き方を
選んで生活できるようになればと思うのです。富の分配、教育と医療の普及を待っている人たちが
います。私たちへの期待には大きいものがあります。
地上でふたり三人が心合わせて集まるところに私も共にいる、とのイエスのことばに励まされて
これからも私たちは歩んでいきましょう。
2015年5月30日 石谷牧師記
このところ、いのちを大切にする文化を時間がかかっても着実に作っていかねば
と思うことです。今週新聞には「裁量労働制」 で働いていた方の過労死認定、
さらに派遣労働者規制緩和の審議入りが報じられました。
私たちの日本社会では、一人の生命、一人の暮らしが軽く見積もられている
のではないでしょうか。そのことよりも、会社の利益、経営側の論理が優先されて
いるのではないか。
根は深いと感じています。あの戦争のとき、我が国にも「特攻」がありました。
潜水艇、飛行機、小型船舶に弾薬を入れ、操縦士は敵艦に突っ込むという「特攻」。
人間のいのちよりも戦果、成果を重んじることが優先された戦術。この戦術を
受け入れる精神文化。
このことが現在も続いて存在しているから、働く人々がいのちを削っている。
しかもこのことは法律となっていわば「国策」である。
私はいのちを大切にする文化を作る意識的営みを私たち一人一人がたゆまず
続けることだと思います。「国策」はしばしば国民のいのちよりも別のものを優先
していくあやまちをするのは歴史が教えることです。
写真はアデルフォイのクローバーです。
2015年5月15日 石谷牧師記
ヨハネ福音書の最終章は人間の食欲を考える上でたいへん興味深いです。
なんとイエス自らが、弟子たちのために火をおこし、パンを準備し、魚を焼いて
食べさせたというのです。そのときの弟子たちは、師であるイエスが殺害され、
自分たちにも及ぶ危険への恐れと師を捨てた自責とで心は沈んでいたのです。
決まり切ったことに身をゆだねるようにして漁に出ましたが、魚は一匹も獲れません、
なんとも元気が出てこない状態であったのです。
こんなときは食欲は落ちていることでしょう、食べない、食べれないから元気はますます
出てこない。私たちの実生活にも似た日々はあるではありませんか。
そんな弟子たちにイエスがしたことは、食べるものを準備して、しかも弟子たちの
食を増進させるようとパフォーマンスその場を盛り上げたのです。
きっと弟子たちは導かれるようにして食べ始めていったことだと思います。
食べると元気がでるのです、食べる人間は元気がいいのです。
幼子から高齢者までの普遍の原理です。
貝原益軒著『養生訓』に「胃の気とは元気の別名なり」ということばがあるのを知りました。
ある方は「胃の気」とは、ごくごく分かり易く言い直せば「食欲」だと教えてくれました。
食欲は元気の別名である、ということでしょうか。
だから食欲をおとさないような、食欲を保つような、生活の仕方をあなたが主体性をもって
実行すれば元気でおれる、ということでしょう。
健康作りの主人公は医者ではなく自分なんだ、という当たり前のことを「食欲」から知ることです。
イエスが弟子たちの生きる元気、生きる意欲を復活させようとして、まず何をされたか、
食卓を準備された、食欲を引きだそうとされた。実に人間の生きることに通じたふるまいでした。
それにしても私たちの誰にも備わった「食欲」は、人間よ生きよ生きよとの福音、恵みですね。
ヨハネ福音書にあるこのお話を、食欲と元気のつながりに展開しました。
2015年5月11日 石谷牧師記
イースターのメッセージを作るなかで、三福音書の最後を読み比べてみました。
その差異に考えること大きいです。
マタイ福音書では、復活したイエスが、予告していたとおりにガリラヤで弟子たちに会います。
そして弟子たちに語ります。28章18節から20節です。私はいまや天上と地上とのすべての
権能を与えられた、あなた方は行ってあらゆる異邦人を弟子とせよ、バプテスマを授けよ、
私が指示したすべてのことを守るように教えよ、インマヌエル私は世の終りまであなたたちと
共にいる、と。弟子たちは世界宣教へ派遣されます。
ナザレのイエスはキリストになっています。いつも共にいてくださるキリストです。
すべての人間に伝えられるべきキリスト、受け入れる者はキリストの弟子となる。
マルコ福音書でもマタイ福音書でも、イエスは弟子たちに、復活したのちガリラヤで
会うと予告していますが、マルコでは弟子たちがガリラヤでイエスに会ったかどうかは
(もともとは)書かれていません。マタイには書かれている、いったいこの差異は何だろうか。
私は自分のことを反省しつつこのように思います。
イエスがガリラヤでなしたこと、それは悩む者に慰めを、励ましを伝え、
つみびと呼ばわりされている者に尊厳を回復することでした。弟子を得ようとしましたが、
それは良き知らせを伝え良きことが実現されるために働き人が必要だったからでした、
そして弟子たちにはあくまで人々に仕えるしもべのようにあれということでした。
良き知らせという福音の内容とその伝え方がガリラヤにはあります。
この原点に帰れ、この原点から始めよう。イエスのガリラヤで会おう、にマルコはこのイエスの願い
を聞きとったのではないか。
マタイの最後の部分がひとりあるきを始めると危ういと感じます。相手本位になって仕える
のではなく、キリストの側に正しさがあり、人はキリストの側、宣教する側に入ってこなければならない、
ということになってしまう、危うさです。マタイとマタイの仲間はそのように考えていたのかもしれません。
さきほど自分のことを反省しつつ、と書きました。これは私がしばしば、イエスの弟子でありたい、
と口に出すからです。自分に対して言うならまだしも、このことばを誰かの前で言うのは良くない、と
感じたからです。イエスはけっしてガリラヤで弟子を求めて活動したわけではなかった、相手の必要、
相手の尊厳、相手が明るい朗らかな自己肯定を持つように働いた、ここに徹した。この点が色あせる
ようなことを人の前で語らない方が良い、そういう私の反省です。
マタイには、注意していないと、宣教とか教会を絶対化し相手に強制していくようになる危うさの種が
あると思います。
ルカ福音書ではどうでしょうか。24章46節から48節を読むと、復活したイエスが弟子たちとガリラヤで会う
ことがなくなっています。イエスは弟子たちに語ります。エルサレムから始めて、キリストの名において
罪の赦しにいたる改心がもろもろの国民に宣べ伝えられる、あなたたちはその証人となる、と。
私たちは自分が愛に欠けていることをよく分かってきました。赦されていることに感謝し赦しに応えていきたい
と思っています。ルカにあるとおり私たちは証人です。
しかし気をつけねばならないことは、イエスはまず第一に人に悔い改めることを求めたのか。
ガリラヤでナザレのイエスは悔い改めを迫るのではなくて、しもべとなり友になろうとした
のではなかったか。ルカには自分の側が正しいと主張していく危うさ、イエスの温かみが消えていく
傾向があると思います。
マルコは自分の周辺の同心の者たちに、マタイなるもの、ルカなるものの出現を感じるようになり、
そうではないのではないか、自分たちのよりどころ、自分たちの目指すところは、イエスのガリラヤに
おいての活動とその帰結としてのエルサレムでの十字架刑死にしめされた姿勢にあるのではないか、
と語っていると私は思います。
2015年4月16日 石谷牧師記